Home Run Taiwan
次の50年のスタートだ
半世紀前、19人からスタートし、今や100ヵ所の海外拠点と
2万7千人の社員を有する金融グループに成長した。
中国信託が50周年を迎えるこの日に感謝し、次の50年をスタートさせよう!
困難への挑戦。蘇花区間のトンネルをランナーたちは走り続ける。
東北角海岸を走り、両脚でこの地の美しさを感じている。
台湾金融のトップブランドとなった中国信託は、多くの人とこの豊かな土壌と自然の恵みに感謝の気持ちを抱いている。この心を伝えるため、中国信託は台湾を一周する50のグランドツアーを決定した。
第1回Home Run Taiwan 9日間台湾一周ノンストップマラソンの誕生である。台湾各地から来た人々と中国信託の社員は、9日間で台湾を一周する。中国信託フィナンシャルホールディング会長の顔文隆は、中国信託の歩みのように勇敢に前進し、畏敬の心をもって走ろう、とランナーを激励した。
コースには、美しい景色と険しい道が待っている。天候、昼夜を問わず、逆風が吹いても坂道であっても、ランナーは笑顔で自分を信じ、困難を乗り越え、喜びを感じて走る。これは、創業当時の社員がどんな試練にも立ち向かい、勇猛果敢に業務に取り組んだことと同じである。
10 kmごとにバトンを渡し 信念をつないでいく
リレーはチームメイトの一体感を生み出し、10 kmごとのバトンパスは、祝福と期待を伝える瞬間となる。初対面のランナーたちは、ここで大きな家族となる。
リレーマラソンには、中国信託の社員だけでなく、台湾各地から集まった一般参加者と共に特別なランナーが参加した。車いすの脳性麻痺の娘とともに走り続ける李孟晋、車いすで一生懸命走る「犬山居」の障がいを持つ犬たち、富源と豊田国民小学校の少年野球チーム、東河国民小学校綱引きチームの子どもたち、彼らはそれぞれの想いを抱きながら参加した。
200時間ノンストップ 初心に帰る
中国信託は率先して公共福祉活動を推進し、ここで得た感動が原動力となっている。沿道の人々は熱い声援を送る。スイカ売りのおばあさん、畑仕事のおじさん、汽笛を長く鳴り響かせて応援する電車の車掌さん、皆仕事を放り出す勢いで応援してくれた。これこそ、中国信託を支える力である。台湾の人々の協力に心から感謝したい。We are family!
なぜこのイベントを開催するのか。次の50年、中国信託はどこに向かうのか。1,000 km先のゴール地点にその答えがある。中国信託には、まさに人々の力が結集している。社員や顧客、見知らぬ人にも関心を寄せ、みんなが家族のようになっているのだ。
ノンストップマラソンは、昼夜雨風の洗礼を受けた。マイルストーンはゴールではなく、新しい旅路の始まりである。中国信託は信念を守り、さらに多くのエネルギーと祝福をもって歩み続け、将来を切り開いていく。
ランナーたちは、夢を抱き、9日間にわたる台湾一周の旅へと踏み出した。
Home Run Taiwan台湾一周リレーマラソン全記録
前へ進む・現在と過去
バトンをつなぐ200時間 VS 中国信託50年の歩み
多くの人が徹夜で走り、ノンストップマラソンに挑戦する。
陽射しが強くても、風雨が強くても、Vespaに乗って任務に励む。
200時間と50年。彼らの信念と意志は共通だ。
中国信託の軌跡を、時空を超えて、ここに書き記す。
ウォーミングアップ >< 力を蓄えて好機を待つ
我々は先駆者である。
何事も恐れず、未知の旅路を歩んでいこう。
深夜の挑戦に向け、全員が同じ動作でウォーミングアップする。
朝日を浴びながら、ランナーたちは身体を慣らす。そして幕が上がる。
中国信託のDNAには革新と信念を貫く精神が刻まれている。難しさは重要ではない。初めての取り組みによって新しい波、新しい価値を生み出し、社会をより良くすることを期待する。Home Run Taiwanでは、台湾に多くの可能性を探し求めるために走るのだ。
頂上の見えない目標に挑戦しよう
中国信託は設立50周年を迎えた。社員が19人から2万7千人に増え、子会社や海外支店も増えた。50周年にあたって、他にはない印象を残し、中国信託という大家族が一堂に会するだけでなく、多くの人が参加し、台湾の愛と美しさを感じてもらうことを目指した。創立記念行事も検討したが、最終的には「ノンストップ」という概念に注目し、9日間、200時間にわたる台湾一周ノンストップマラソンへの挑戦を決めた。これまで、ゴールの見えない目標に挑戦してきた我々には、すでに成算があり、恐れるものは何もない。
熱き血が漲る 愛を繋いで走ろう
台湾一周1,000 kmを9日間、昼夜を問わず、バトンをつなぐためだけに走り続ける。この構想は、関係者たちの闘志に火をつけた。前例のない目標に挑むため、事前準備は入念に行なわなければならない。ルート設定から雨天時の対応、ランナーの移動手段の手配・交通・宿泊・ルート状況の把握・安全な補給方法等をひとつひとつ確認、シミュレーションし、万全の準備をした。
ハード面・ソフト面とも充実させ、台湾の魅力を記録した映画も数ヵ月前から放映し、スタートを待ち望んだ。ランナーでも、応援でも、すべての参加者を歓迎する。Home Run Taiwan 愛を繋いで走ろう!9日間台湾一周ノンストップマラソンで、台湾の愛と感動を全身で感じよう。
深夜、台湾一周のコース脇で、ランナーたちはバトンを受け取る前のウォーミングアップを入念にしている。
笑顔と揺るぎない信念で、まもなくスタートする自分自身とチームメイトにエールを送る。
南回公路にある寿峠鉄馬駅前、ランナーが整列しウォーミングアップする様子は、朝霧の中、心を奮い立たせる光景である。
1960年代、台湾社会は好機の到来を待っていた。
台湾経済が新しい時代を迎えるため、
その起爆剤となる世界レベルの銀行をつくる必要があった。
写真は、辜振甫と辜濓松。中国信託金融園区の文薈館に展示されている。
土地改革や、台湾セメント・台湾製紙・農林・鉱工業等の大型国営企業の民営化で、当時の台湾社会と経済活動は大きな変革期にあった。民間企業が急成長する一方、証券取引は混迷を極めていた。これら有価証券の流通市場を一ヵ所に集中させるため、政府は辜振甫に台湾証券取引所を組織するよう命じ、中華証券投資公司が設立された。当時、ウォール街ですでに事業展開していた辜濓松も、叔父の辜振甫をサポートした。
辜濓松は当時を振り返りこう語った。「海外の大学を卒業し、銀行にも勤めていました。当時の成功は一生安泰の人生を保証するものでした。しかし、多くのことを学んだけれど、海外で外国人の為に働くという感覚は決して心地よいものではありませんでした。その時、帰国して故郷に銀行を開設し、台湾にも世界レベルの銀行をつくろうと思ったのです」。そして、経済の発展により追い風が吹き、叔父と甥は手を携えて、台湾金融史に新たな1ページを刻むこととなった。
辜振甫は「謙虚にして驕らず、対外的な信頼構築」を中国信託の企業理念とした。また、辜濓松は「まじめな経営、心のこもったサービス」を信念とし、着実に歩み、社員をリードし、将来のために何ができるのかを考えた。
スターターの号砲 >< 全力で前へ前へ
スタート
それはゴールへ向かう大切な第一歩。
会長の顔文隆(左から6人目)が来賓と共に、Home Run Taiwan 9日間台湾一周ノンストップマラソンの幕を開ける。
世界中の人々が参加し、台湾の美しさを体感する。
2016年10月1日早朝、南港中国信託金融園区に続々と人が集まる。中庭広場では、多くの社員が家族連れで楽しそうに身支度をし、嬉々とした表情で創立50周年を祝福した。そして、Home Run Taiwan 9日間台湾一周ノンストップマラソンのランナーに拍手と声援を送った。
ウォーミングアップに合わせて移動し始め、スタートランナーと応援団は気分を高揚させ、9日間にわたる最初の試みを迎える。Home Run Taiwan 9日間台湾一周ノンストップマラソンをスムーズに進行するため、社員総動員で力を合わせ、バトンをつなぐことだけを願い、台湾の力を結集させる。千里の道も一歩から。自らの足で踏みしめた大地に、大きな価値が生まれる。
10ヵ国を超えるランナーが台湾の美しさを体感する
Home Run Taiwan 9日間台湾一周ノンストップマラソンは、1,600名のランナーを惹きつけた。スタートランナーは、中国信託フィナンシャルホールディングと各子会社の社員、一般市民のほかに、イタリア・スペイン・チェコ・日本・シンガポール・フィリピン・中国・ペルーなど10を超える国と地域の企業幹部や駐台事務所の職員が参加し、台湾の美しさを体感する。
セレモニーでは、中国信託フィナンシャルホールディング会長の顔文隆、教育部体育署長の何卓飛、台北市長の柯文哲など12名の来賓がスターターとなり、歓喜の中、ノンストップマラソンの幕が開いた。多くの社員がサポートに駆けつけ、スタートランナーに伴走する。台湾一周のスタートを切り、元気いっぱいに「台湾全土を走り、確かな歩みでどんな困難にも挑戦しよう!」と宣誓した。
中国信託金融園区で、多くの観客がこの歴史的な挑戦を応援。
中国信託という大家族が、自信のある笑顔で、ランナーを元気づける。
スタート。昼夜天候を問わず、勇敢に前に向かって走り出す。
すぐ傍を走る普悠瑪列車(プユマ号)。闘志がさらに高まる。
前に進めば、必ず道が開ける。
攻めの姿勢こそ生き抜く最良の方法である。
銀行への改編は、社員が思い描いた目標である。証券投資会社から信託投資会社への改組後、ひたすら挑戦したが、当時は法令制約が多く、会社の発展は容易ではなかった。この難題をどう突破すべきか。
「資金は会社の血液である」という辜濓松の考えのもと、全力で突き進み、キャンペーンチームを誕生させ、照りつける太陽の下でも、風雨の中でも社員一人ひとりがVespaに乗って顧客を訪問した。中国信託の当時の社員にとって最も苦難に満ちた年月であり、多くの思い出が残る日々でもあった。この努力により、その後の発展の基礎が築かれた。
社員はマンツーマン営業のほか、調査と顧客の発掘を得意としていた。調査は、当時のキャンペーン活動で最も重要な仕事であり、人脈の構築を目的としていた。また、顧客の発掘は、中国信託精神の手本となるものであり、事業者と潜在顧客を探し出し、その一人ひとりを訪問したのである。
将来の可能性を信じ、未来を制するため、1974年に台湾初のクレジットカードを発行した。新竹中科院において普及促進を図るため、スタッフは10 km圏内の店に一軒一軒足を運んだ。最後までやり遂げようとする意志の強さ、計画的な攻め、そして団結の精神で、社員は独創的で堅実な戦略を考え出した。長年の苦労の末で1992年には商業銀行となり、中国信託は新たな段階へと登り始めた。
1972年に誕生したキャンペーンチームは、Vespaに乗って業務を遂行した。
1974年発行、台湾初のクレジットカード。
支え合い >< 大家族の精神
独りで速く走ることはできる。
しかし、チームでバトンをつなげば、より遠くまで走ることができる!
朝早くからスタートのセレモニーに参加していた蔡勝安と張瓊文夫妻は、中国信託のベテラン社員である。「会社の50歳のバースデーですから、もちろん私たちも一緒に参加しました。家族が一緒にお祝いするようなものよ!」職場から人生まで互いに支え合うこの大家族には、幸せな記憶と感謝で満ちている。
友情には言葉では言い表せない大きな力がある。49番目のランナーは、台湾人寿保険で働く陳昱璇である。初対面の社員と、走るうちに友情が芽生えたのは言うまでもない。更に林喬彬が、早朝4時半に高雄から自転車で南回公路のスタート地点にやって来て、自転車を担いで10 km伴走したのだ。この思いがけない訪問者の熱意はランナーたちの士気を高め、笑顔にさせたに違いない。
100番目のランナーは呉興伝。これは生命が生命に影響を与える励ましのエピソードである。ランナー歴30年以上の彼は元々スポーツマンで体は頑丈だった。しかし8年前、癌を患い、更に癌で妻を亡くすという不幸にも見舞われ、家庭は崩壊寸前であった。妻との約束を果たす為、そして子どもたちの面倒をみる為に自らを奮い立たせ、意義あることをするよう神様に生かされたのだと信じた。かつてランナーだった彼は簡単には諦めず、抗がん剤治療中を除いては、日々練習を続けた。彼は、「3日走らなかったら食事が喉を通らない」と微笑みながら話す。癌を患ってから、病を抱える友人の心の痛みをよく理解できるようになり、運動で癌と闘う活動を始めた。病の友人に呼びかけて一緒に走り、運動で身体を鍛え、互いに励まし合い、生命の活路を開いたのだ。
We are familyのロゴステッカーが、大家族の温かい応援と共にランナーを支えた。
ペースメーカーである陳仲仁の妻がベビーカーを押して一緒に走る姿に、コース脇の人々も手を振って温かい声援を送る。
ランナーたちは自分たちで考えた掛け声で、心をひとつにして互いに気合を入れる。このような風景は9日間昼夜見られ、ランナーを前へ前へと突き進ませた。
士気を高めるランナーたち。明るく笑いながらお互いを励ます。
早朝に起きて、自転車を担いで伴走する林喬彬。義理人情に厚く仲間を支え、チーム全体を激励する。
癌と闘う呉興伝。病の再発を恐れず、走ることをあきらめない。
つまずき、倒れても走り続ける
東北角海岸付近で、第3走者の黄佳慧はトンネル内で転倒した。3年以上のランニング経験で、初めて転んだ。負傷し、服も破れた。腕と膝から血を流し、チームメイトに支えられトンネルを出た。しかし、残り1.5 kmと知り、走り続けることを決めた彼女は、「諦めるという考えはまったくなかった」「痛いし、顔もぶつけたけれど、チームメイトが助けてくれた。問題はないから、走り続ける」と言った。
彼女は「リレーは素晴らしい。独りで速く走れますが、ノンストップでバトンを繋げば、より遠くまで走れるのです。その一員となれたことはとても光栄です」と話す。
「会長と麻雀を楽しみ、
親友のようでした!」
松柏会後、辜濓松会長と同僚による記念撮影。
同僚と酒を酌み交わす辜濓松会長。
逆風 >< 変化と挑戦
出発15日前、台風が連続して上陸し、東部の山岳地帯は大きな被害を受けた。社員とランナーのハードルが上がった。
最もハードな蘇花公路は、上り坂と断崖絶壁が続き、狭い車道を大型トラックとすれ違う。ランナーにとって、期待と恐れが入り混じるハイレベルな挑戦だ。山々に囲まれ、あまり人がいない南回公路は、落石が多く交通も不便だが、人々に憧れさえ抱かせる究極の試練である。日中も走り難く、夜中の走行は恐ろしいとさえ感じるだろう。
試練があるからこそ、人は挑戦する。30番目のランナーで、夜中に花蓮県瑞穂郷の上り坂を走るのは、香港から参加した徐広沛だ。彼は、わざわざこの体験と挑戦のために参加しにきたと言う。しかし、今回参加する多くのランナーは、彼のように経験豊富ではない。初めて走る彼らは、風雨の夜中にスタートし、想像もつかない試練に直面しようとしている。
47番目のランナー李欣元は、トレーニング以外で10 kmを走ったことがなかった。さらに大雨の中、最難関の南回寿峠10 kmの上り坂を走るとは予想もしなかった。彼と6人のメンバーは、早朝5時に大雨の中、水たまりを踏みながらスタートする。大きな雨粒で、目はほとんど開かず、暗闇の中、サーチライトを頼りに進むしかない。来たからにはあきらめる訳にはいかない。大きなカーブを過ぎた頃、誰かが「長い上り坂だ、登れ、登れ、登れ!」と掛け声を始め、その声は山中に響きわたった。全員が同時にゴールし、誰も後続車に乗らなかった。
この9日間、高い山と暗闇を越え、大雨や強い日差しの中、障害を乗り越えた。ランナーたちは体力を使い果たし、どんなに疲れていようとも、皆笑顔でゴールする。ひょっとすると、このような試練があるからこそ、鞭を打ちながら高みを目指し、遠くまで走り、新境地に到達できるのだろうか。強くなった自分は、この道のりが与えた最高の贈り物である。
雨の早朝、南回公路の厳しい上り坂で、ランナーは体力の限界に挑み、懸命に前に進む。
人は雨に追いかけられると言うが、私たちは大雨を追いかけているのだ。
蘇花公路の険しい道が行く手を阻むが、素晴らしい景色が傍にある。
くねくねと続く道、照りつける太陽を恐れず走る。チームメイトが一緒だからこそ、道中の苦しさは忘れてしまう。
険しい道が落石に覆われている。ランナーたちは恐れを見せず、ひたすら前を行く。
社員は信じている、
変化を求める心は永遠に変わらない。
1992年、商業銀行となる。すべての社員による署名と拇印が、皆が心を合わせて困難を乗り越えたことを象徴する。
中国信託は、遠大な目標を達成するために挑戦を続けている。信託投資会社から商業銀行となり、段階的な目標達成だけでなく、台湾金融業界に訪れた競争激化にも挑まなければならない。創設者である辜濓松は、かつて「スケールこそ銀行の競争力だ」と話した。銀行になる前、中国信託の資産規模は商銀(第一銀行·華南銀行·彰化銀行)のわずか4分の1であった。当時いわゆる「BTプラン」(BT=Beat Three)があり、3つの商銀を追い抜くことを目標とした。
しかし、銀行業務の複雑さは信託投資会社とは大きな差があり、大規模な改革を経てようやく、目標に向かって前に進むことができるのだ。改革の中で、個人向け金融と法人向け金融の業務を切り分けたほか、組織構造・業務フロー・人事政策等すべてを徹底的に改変した。巨大組織の変革と転換で状況が安定しない中、これまでに長い年月をかけて積み重ねてきた企業文化が比類なき安定作用を発揮した。社員の心には、変化を求める心は永遠に変わらないと信じる気持ちがあり、「顧客」と「ライバル」が、社員を勇気ある変化に駆り立てた。
中国信託の発展は決して順風満帆ではなかった。2006年には海外の仕組債やクレジットカードと現金カード(消費者金融)の過度な発行が続き、内憂外患、かつてない危機に見舞われた。2008年にはアメリカでリーマンブラザーズが倒産し、グローバル金融市場が大きな痛手を負い、業務にも多大な影響が及んだ。長きにわたって、中国信託は危機を経験してきたが、それでも依然としてしっかりと安定し続けている。その鍵は「誰もが心を一つにして、苦労を共にする」ことにある。幹部だけでなく、現場で働く社員も職場を守り、そんな社員の挫折に屈しない心が、今日の優れた業績を生み出したのだ。
バトンタッチ >< ミッションの推進
道は遠くても、頑張れる理由。
それは、前方で待つ家族のため。
バトンを受けるランナーは、ウォームアップを終え、前のランナーへのメダルとタオルを持って一列に並ぶ。前のランナーが走ってくると、バトンを受ける者は声援を送り、バトンをつなぐ者は力を振り絞ってリレー地点に向けて走り続ける。ハイタッチの瞬間、ランナー同士の交流と感情の共有が生まれる。すぐに次が出発し、一人ひとり続いていき、Home Run Taiwanの快挙を達成する。
屏東県枋山スタートの51番目のランナーは、社員である李翊豪・劉燕霖・林宜陞のたった3人である。「必ず走り切って、バトンをつなぐ」初対面から冗談を言うほど頼り合っているが、まさか3人とも初マラソンが南台湾の日差しの下とは思いもよらなかった。ひるまず闘志を燃やし、オーブンの中で走ろうと笑った。大粒の汗をかきながら、ゴールに向かって走り続けた。
始めは、ただ順番が巡ってくるだけだったが、前方に待つ人が見えると前の走者を思い出し、一体感を感じる。そして、自分が歴史的な活動に参加していることを改めて感じ、使命感が溢れてくる。
36番目のランナーから、バブルスカートをバトンにした。最初は面白がっていただけだったが、誰かがこのスカートを台北に着て帰ろうと提案した。この服装が瞬く間に勲章へと生まれ変わり、身につけた者は、勲章を着けた兵隊のようである。また、誰かが国旗を背にすると、歴史の重みを手にしたように、後に続いて熱い思いを書いた布を掲げる。どのチームもセンスが光る。皆それぞれの夢を抱いているからだ。同じテンポで前進し、情熱とアイデアを奮い立たせる。リレーこそ伝承であり、ハイタッチは、走り終えたチームへの祝福だ。そして、再び前に向かって走っていく。
ランナーたちは士気を高め、励まし合い、楽しそうに走っていく。
10 km完走!ランナーたちは歓喜の中ハイタッチし、バトンをつなぐ。
マラソンに対するそれぞれの熱い思い。共通するのは自信あふれる笑顔である。力を合わせて前に進む。
バトンがつながるたびに、コメディーのようなバブルスカートが、使命を伝える神聖な勲章へと生まれ変わる。
前のランナーから引き継いだバブルスカートを身につけて、ランナーは真剣にウォーミングアップし、スタートを待つ。
ランナー魂は不滅だ!
マラソンには、多くの初心者ランナーが参加した。最高齢参加者は、高雄からきた赤いバンダナを巻いた65歳の謝耀昌である。グレーの頭髪の彼のランナー魂は健在で、参加したランニングイベントは50を超える。他の参加者より年齢が上でも10 kmを完走してバトンをつないだ後も、彼は走り続け、台湾の隅々まで走りたいという意欲を見せた。
現代あるいは未来に関わらず、
ITをうまく活用しないで金融ビジネスを行うのは、
銀行として失格である。
不眠不休のオフィス。自分自身を超えることが、社員共通の目標である。
中国信託が商業銀行に制度を改めた後、組織改編やコンピューター化を加速し、新たなバンキングシステム設置と電子商取引の決済プラットフォームの提供を開始した。当時の銀行総経理で、デジタル化を推進した辜仲諒は「現代か未来かに関わらず、ITをうまく活用しないで金融ビジネスを行うのは、銀行として失格だ」と考えた。社員の任務必達の姿勢と粘り強さで、ITシステムへのスムーズな移行に成功し、製品の研究開発と顧客サービスが飛躍的な発展を遂げた。
中国信託銀行会長の童兆勤は「ITシステムの構築によりしっかりとした基礎が築かれたことで、中国信託は海外で新たな業務を展開することができた。また、産業・組織構成の調整・リスク分散というコントロール方式を理解したことで、2008年の世界的金融危機を無事に耐え抜くことができた」と話す。
変化を求めることは、中国信託の重要な核心的価値観である。「金融商品には特許権がなく、トップを走り続けるには革新が必要である」と、中国信託フィナンシャルホールディング総経理の呉一揆は指摘する。古い酒を新しいボトルに変えることも革新である。まず一歩だけ前進し、その後に独自の技術とサービスで、ライバルとの差を徐々に開くのだ。デジタルバンキングを例にすると、中国信託の生体認証の取り組みには、指静脈認証を使ったATMでのカードレス取引やテクノロジーを活用した自動応答システム、顔認証技術等が含まれ、いずれも台湾金融業界で唯一または初の導入である。中国信託銀行総経理の陳佳文は「デジタル化は手段に過ぎない。顧客により良いサービスを提供することこそ、真の目的である」と強調する。
中国信託フィナンシャルホールディングの戦略が向かう方向は、銀行本来の業務の自然発生的な発展を除き、保険事業への参入がより重要なマイルストーンである。2011年に中国信託フィナンシャルホールディングは台湾にあるメットライフ生命保険の子会社を買収して保険事業の分野に参入し、2014年にはマニュライフ生命台湾支社を買収した。2015年に台湾人寿保険が、正式に中国信託フィナンシャルホールディングに加入し、デュアルブランドのシナジー効果が有効に発揮されている。
顧客や家庭のために素晴らしい明日を創造し、中国信託はその力強さと勢いのある生命力で前進し続ける。
見守りと励まし >< サービスと信念
あなたの見守りにより安心が生まれる。
あなたの励ましにより意欲が生まれる。
夜間警備員がライトを点滅させながら、ランナーの到着を迎える。
ひたすら走るマラソンは個人競技に思えるが、実際は多くの人たちにサポートしてもらっている。コースは長く変化に富んで、一見孤独そうなランナーの後ろには、常に見守る人々がいる。
ノンストップマラソンは規模が大きく複雑なため、進行体制には事前のプランニング・随行見守り・後方支援・応急支援・行政指揮・映像記録などが含まれる。どの区間も10人以上のランナーが走るため、100人近いスタッフを配置し、活動の安全を確保する。
行政指揮と後方支援は責任が重く、3班・24時間体制である。各区間にペースメーカー、先導車と後続車による随行がつき、ランナーの安全を確保する。途中の水分とエネルギー補給のため、2、3 kmごとに給水所を設置したが、いくつかの道路状況は特殊で蘇花公路のように道が狭い場所では、安全面から給水所の設置は難しい。スタッフは車載補給の方法を考え、3 kmごとに随行バイクをランナーに近づけ、無事に補給を行った。
夜中は暗く、照明すらない区間もある。スタッフは早めに予定地点に到着し、ランナーのために照明を灯した。リレー地点に近づくと、応援する声が聞こえ、家族が出迎えるかのようだ。真っ暗で慣れない夜道では、ランナーの疲れた心を笑顔で励ますことで、リレー地点に向かう足取りも軽くなる。
持ち場を守り、黙々と待つ。必要な時に温かい思いやりを捧げる。この姿は、社員の日々の仕事ぶりに通じる。
ランナーのエネルギー補給のため、スタッフが念入りに各補給食を準備。
ランナーにゼッケンをつけ、スタート時刻はまもなくだ。
2、3 kmごとに給水所を設け、心を込めてランナーの水分・エネルギー補給のお手伝い。
スタッフは道中、声掛けや付き添いを行い、ランナーと共に完走を目指す。
最低速の誘導隊
53歳の先導隊の許文章は、バイクで6~7 km/hでランナーに寄り添う。上り坂では4~5 km/hとさらにペースが落ち、相当の体力と集中力を要する。9日間、毎日8時間をバイクで走り、お尻が痛くなっても、ランナーのために道路状況に留意し、安全を守る。アームカバーを着け、首にはタオルを巻き、日よけする。肌は日焼けし、サングラスをかけている。彼も元々はランナーであるが、今回はランナーではなく仕事での参加だ。彼は「走りたいのは山々です。しかし今回は、ランナーの安全を守ることが仕事です」と話す。
「サービスは思想であり、
信仰であり、力である」。
中国信託カスタマーセンターフリーダイヤル
いつもあなたの側に。2000年広告イメージ(図)
080-024-365は誰もがよく知る24時間・365日対応のフリーダイヤルだ。台湾金融業界のサービスの神と呼ばれてきた現中国信託クレジットカードカスタマーセンター副総経理の童惠霖は、「クレジットカードのゴッドファーザー」と呼ばれる羅聯福の言葉を引用してこう語る。「サービスは思想であり、信仰であり、力です」。
中国信託のカスタマーセンターのネットワークには、数えきれないほどの感動がある。主人公は、かつて中国信託クレジットカードのユーザーだった人物だ。罪を犯して刑務所に入り、家族は彼を許せず一切のやり取りを拒否していた。そして、刑期満了を家族は誰も知らなかった。
彼は無一文だったが、不思議なことに唯一覚えていたフリーダイヤル080-024-365に電話をかけ、家族と連絡をとる手助けをしてほしいと願った。彼の家族は、カスタマーセンターからの電話に心を打たれ、彼へのわだかまりを捨て去った。
「お客さまのために、もっとできることがあるのではないか」という気持ちを、社員は皆持ち続けている。深夜に道で助けを求められたり、海外でお金をなくしたり、家族が重傷を負ったり等の突発的な状況であっても、カスタマーセンターのスタッフはコミュニケーションを諦めず、協力者を探し、一番良い対応を考え出すのだ。これらは、カスタマーセンタースタッフの業務の範囲外である。
個人消費の金融サービスにとどまらず、企業顧客に対するサービスも、同じように称賛を受けている。幾度かの金融危機にも、中国信託は堅実経営で不安定な状況を持ちこたえ、「雨の日は傘を閉じない(不景気で経営が苦しい会社にも、融資を渋らない)」姿勢を貫き、苦境に陥っている顧客の味方となった。胸を張れる金融業務のほか、長期にわたって開拓してきた国際金融拠点も、多くの企業の世界進出に対して最適なバックアップを行ってきた。このような顧客サービスを貫いてきたことで、中国信託は顧客の夢を後押しする存在となり、一つひとつの切なる望みを見守っている。
ゴールでありスタートでもある
9日前、ランナーたちはここから出発し、どんな風景や
困難があるのかまったく予想できなかった。
2016年10月9日午後、中国信託金融園区の中庭広場で、風雨の中集まった人々は、100番目のランナーのゴールを出迎えた。その日は、中国信託「家族の日」であった。走り終えたランナーが家族を連れ、広場は人であふれた。感情は高ぶり、大きな声援を送る。
大スクリーンには今回の記録映像が流れ、危険な蘇花、暗闇と大雨の中通過した上り坂、バトンがつながる様子を見て、多くの人は目頭を熱くした。それぞれの夢を胸に抱き、勇気と信念がランナーたちを駆り立て、障害を乗り越え、ゴールを目指して一歩一歩ひたすら走る。
まもなく1,000 kmの達成である。200時間のイベントもカウントダウンに突入した。100番目のランナーは、ウルトラマラソンのスーパースター、癌と闘う勇者、そして50歳の誕生日を迎える中国信託の9人で構成された。今年50歳の石林序は、ゴールに到着すると、彼の妻が表彰メダルを持って待っており、喜びもひとしおであった。元々は応援だけのつもりだった彼の妻も、この「極秘任務」を成功させ、忘れがたい時を胸に刻んだ。
出迎える人たちと、両手を広げてハイタッチをする。
国旗を背負った100番目のランナーは感極まり、両側に並んでゴールを。
9名のランナーは、会社と同じ年齢の社員である。家族から完走を称えるメダルを首にかけられ、驚きと喜びの表情をみせる。
Home Run Taiwanはひとつの始まりに過ぎない。9日間、自らでこの地を開拓し、夢を追い求め、生命に対する慈しみと変わらぬ強さを感じとった。これからもさまざまな方法で、心からの思いやりを伝え続け、愛によってきらめく笑顔が見られることを期待する。
顔文隆会長と中国信託幹部は、風雨の中100番目のランナーの到着を出迎え、ハイタッチをする。
古い写真 つながる不思議な縁
本社が南港の新オフィスに移転したとき、古い写真を募集した。石林序と妻はウエディングドレス姿の写真を見つけた。完成したばかりの信義区本社で撮影した写真だった。写真と同じ場所を家族3人で訪れ、記念写真を撮った。今と昔を比較するものとして、社内で表彰を受けた。当時の彼は、中国信託の社員になるとは夢にも思っておらず、家族とともにこの不思議な縁を大事にしている。
社会を思いやるという初心は、
50年間変わらない。
いつも思いやりのある気持ちを持ち続けていれば、
必ず周りの人たちをも動かす力になる。
社会を思いやるという初心は、50年間変わらない。いつも思いやりのある気持ちを持ち続けていれば、必ず周りの人たちをも動かす力になる。
半世紀を振り返ると、前向きなエネルギーは自分に返ってくることに気がついた。マイルストーンは、段階的なゴールでもあり、新たなスタートでもある。
「愛の循環が始まり、新たな変化をもたらす」。1985年、辜濓松は「子どもの未来に光をあてる」募金活動を発起した。これは、台湾初の民間企業による慈善募金活動である。当時、「企業の社会的責任」の概念は、台湾はもちろん、世界の先進国でも芽生え始めたばかりである。小さな思いやりも集まれば大きな力となり、32年間で18億新台湾ドルが集まり、40万人以上の恵まれない子どもを援助してきた。
中国信託フィナンシャルホールディング行政長の高人傑は、「以前、辜濓松会長は決起大会を開催し、その中でただ2つの表彰だけを行った。1つはベテラン社員の表彰、もう1つは優れたボランティアの表彰です」と昨日の出来事のように話す。公益を大事にする姿勢は、日々社員に深く浸透していく。
2004年に中国信託慈善基金会を設立し、公益事業の広がりで効果と利益は倍増した。この活動で「福祉プロジェクト」を推進し、恵まれない家庭の脱貧困を支援してきた。「愛のバトン」や「台湾の夢」プランで、子どもに寄り添い、思いやり、夢を持つ手助けをしたいと考えている。また、薬物撲滅のため、中国信託反薬物教育基金会を設立し、教育と啓発に積極的に取り組んでいる。さらに中国信託金融管理学院に寄付して教育と就業を結びつけ、中国信託文教基金を介して芸術文化を広め、人生における教養を豊かにしている。これらの公益事業に一見関連性はなく見えるが、これまでの軌跡を突き詰めると、互いに関連し合い、つながり合っている。
50年にわたって、中国信託はその歩みを止めることはない。背負う使命のため、前を向き続け、その過程でいくつものマイルストーンを通り過ぎてきた。私たちはここから未来を展望し、何も恐れない。歩んできた道のりで多くの仲間が加わり守られ、すでに変化しているのだ。愛は、私たち家族とともにある。
リレーを振り返る
先頭ランナーが風を受けながら走り、ハイタッチしながら前進する。
連携し合い、同じように着実な歩みで次の50年に向け邁進し続ける。
過去を振り返ると、汗・喝采・明るい笑顔・感動、信念に
支えられてきたからこそ、私たちは未来を恐れない。
これからも正面から全力で挑戦し、乗り越えていく。
中国信託と台湾はともに成長する
50年前、農業社会から転換したばかりの台湾では、
1人当たりの国民総生産は249米ドルであったが、
2016年には
2万米ドルを超えた。
半世紀にわたるめざましい成長に
よって、台湾は世界の注目を集める市場へと急成長した。
台湾金融サービス業界のトップブランドとして、中国信託の本拠移転は台湾社会の発展に合わせて進んできた。1966年、中国信託の前身である中華証券投資公司は台北市館前路に設立された。金融企業が林立し、館前路は「管銭路」と呼ばれ、台湾のウォール街と言われていた。
1971年、中国信託投資公司は、青島西路7号にある建物のフロアを購入してオフィスとし、その頃スタッフは100人もいなかった。政府が推進する「十大建設」と石油化学や鉄鋼業の発展は、台湾産業の急速な高度化を促進した。1978年、着実に成長してきた中国信託投資公司の信託資金は100億新台湾ドルを突破し、重慶南路一段にある重慶ビルに住所を移した。
1980年代、台湾中小企業の輸出貿易は全世界に広がり、台北市松江路・南京東路一帯は、多くの中小企業のオフィスが集まり、富が最も集まる場所となった。なかでも「台北一美しい街並み」と称される敦化北路と民生東路は、多くの企業がオフィスを構えるホットスポットとなった。業務の拡張に対応するため、中国信託投資公司は敦化北路122号にオフィスビルを建て、1984年に事務所を移した。
1992年、中国信託は商業銀行に改組した。辜濓松会長は将来を見据え、雑草だらけの信義計画区の松寿路3号に信義ビルを建設し、1996年に入居。信義計画区初の金融業となった。この地区は徐々に「台北のマンハッタン」と呼ばれるようになった。
1980年代後半から、台湾ではIT・テクノロジー産業の発展が始まり、今ではグローバルハイテク産業の重要な一員となっている。2009年、台湾の将来ビジョンと都市発展形態の転換に対応するため、中国信託は発展潜在力のある南港経貿園区に、新たな本社ビルの建設工事を始めた。2014年12月「中国信託金融園区」は、伝統的な四合院(しごういん)のような空間レイアウトと、山字型に取り囲んだ3棟のビルを建て、南港の新たなランドマークとなった。
1966
中華証券投資公司の設立に際し、楊家麟経済部次長による祝辞。右は、中華証券投資公司会長辜振甫。
1971
中国信託投資公司創立レセプションパーティーの席上で、創業者の辜振甫と辜濓松による記念撮影。
1971
中国信託投資公司の青島西路YWCAビルへの移転に際し、李国鼎経済部部長(中)によるテープカット。
・「中華証券投資股份有限公司」創立。第1回第1次取締役会は辜振甫を会長に推挙。
・中華証券投資公司は、証券引受業者として許可され、証券引受業務を開始し、台湾資本市場で最初の民営証券引受会社となった。
・財政部の承認により、「中国信託投資股份有限公司」に改組し、資本金は2億新台湾ドルにまで増加した。
・台湾プラスチック社による国内最大規模の309,600株もの増資を単独で引き受ける。
・中国信託投資公司第1回第1次取締役会が開かれ、辜振甫が会長に推挙される。
・台北市青島西路7号のYWCAビル1階と2階を購入し、新オフィスとした。
・「証券交易法」が公布され、自ら証券を取り扱えるようになった。
・証券引受業務と証券取扱業務の免許を取得した。
・台湾聚合化学品公司の証券代行業務を引き受ける。国内における証券代行業の先駆けとなる。
・国内初のリース方式による機器設備融資業務をスタート。
1973
辜濓松(左)と王祝康(右)の新旧総経理交代式典において、沈琰常駐監察人の立ち会いのもと引き継ぎが行われる。
1976
創立10周年記念パーティーの席上で、会長および全取締役・監査役、長くキャリアを共にした社員による記念撮影。
1977
第1回中華女子ゴルフオープン大会を開催し、国内ゴルフスポーツを奨励。
1978
重慶ビル落成の際、辜振甫会長によるテープカット。
・クレジットクレジットカード業務を開始し、国内初のクレジットカードを世に送り出した。
・重慶ビル落成式典を行い、本社の移転が完了。
・第1回中国信託杯全国ゴルフクラブチーム大会を開催。
・証券ビザ業務・企業債受託業務・企業債元利償還業務について、経済部と財政部の許可を受ける。
・国際銀行クレジットカード協会に加入し、協会が発行するMasterChargeクレジットカードを普及するため、台湾において関連業務を推進する。
・辜濓松総経理が「台北国際コミュニティ文化基金会」会長に選ばれる。基金会は「台北国際コミュニティ放送局(ICRT)」を設立。
・創業10周年を祝い、3,000万新台湾ドルを拠出し、台湾セメントと共同で「台湾経済研究所」を創設。国内民間初の独立研究機関となる。
・アジア商工会議所連合会第8回会員大会が韓国・ソウルで開催され、辜濓松総経理が第9期会長に選ばれる。また、大会では永久秘書処(事務局)の中華民国台北市への移転を決定した。
・国内でゴルフを奨励するため、第1回中華女子ゴルフオープン大会を開催。
1984
敦化北路ビル落成祝賀大会で、李登輝副総統のが祝辞を述べる。
1985
第1回「子どもの未来に光をあてる」思いやり募金活動を実施。後に台湾の歴史で最も長い慈善募金活動となる。
1989
信託基金が1,000億の大台を突破し、同じ年にモネの名画「アルジャントゥイユの川岸」(Riverbank at Argenteuil)を購入。
1992
インドネシアジャカルタ事務所を開設。中国信託は積極的に海外進出を展開。
・PICA(アジア民間投資会社)への投資について、財政部の同意を得て、国内の民間企業として初めて、海外の金融機関へ投資。
・台北市敦化北路122号の中国信託オフィスビルが着工。
・第1回「子どもの未来に光をあてる」思いやり募金活動を実施。
・財政部証券管理委員会は、中華証券投資股份有限公司が証券会社の営業所を開設して有価証券売買業務を行うことを許可。
・辜振甫会長が率先して証券交易法第51条修正案に賛同した。会長の職務を固辞したため、取締役全員が辜振甫を名誉会長に推薦し、辜濓松を会長に、駱錦明を総経理に推挙した。
・中央政府公債の取次販売事業者となる許可を得る。
・TQC(全社的品質管理)活動に取り組み、国内で初めてTQCを実施する金融機関となる。
・財団法人連合デビットカード処理センターを設立し、辜濓松総経理が会長に選ばれる。
・国内初のVISAカードを発行。
・フランス印象派画家モネの名画「アルジャントゥイユの川岸」(Riverbank at Argenteuil)を購入し、台湾の芸術文化レベルを向上させる。
1992
商業銀行に改組。すべての社員による署名と拇印は、心をひとつにして協力すれば、どんな困難も克服できることを象徴している。
1996
辜濓松会長が、外交部一等外交褒章を受章。
1996
創立30周年、信義ビルが完成 。
・中国信託商業銀行に改組。
・ロンドン・インドネシア・フィリピン・タイ・ベトナム等でオフィスを開設し、中国信託の海外展開がスタートする。
・国内で初めて、カスタマーサービスセンターを開設した銀行となる。
・従業員持株信託業務の許可を得る。
・銀行初のカスタマーサービスセンター専用電話080-024-365を開設。
・創立30周年および信義ビルが落成。
・インドニューデリーに支店、フィリピンに子銀行を設立。
・国内の証券投資信託基金のカストディアン業務をスタート。
・フィリピンマニラに事務所を開設。ラモス大統領が祝辞を述べる。
・香港事務所を開設。
・台湾で初めての銀行24時間自動化サービスを開始。
・キャッシュカード発行数が20万枚を突破。
・辜濓松会長が中華民国工商協進会の新理事長に選ばれる。
・クレジットカードの総流通カード数が100万枚を突破。
・インターネットサービスを発表。
・国内金融業界初となる事務処理センターを開設。
・本国銀行初の無人店舗―西門町区で自動化サービスの提供を開始。
1997
香港支店を設立し、海外拠点が20カ所となる。
1997
インドネシア子銀行を開設し、現地で唯一の台湾資本銀行となる。
2002
中国信託ホールディングスの創立および上場パーティー。
2002
ホーチミン市支店、開業のテープカット。
・香港支店とインドネシア子銀行を相次いで設立し、海外拠点が20カ所となる。
・組織改編に合わせて、「個人金融部門」と「法人金融部門」を設立。
・インターネット経由での請求システムを開始し、国内で初めてSET(インターネット安全決済システム)上での取引および世界で初めてとなるSET上での銀行間取引を開始した。
・新しい銀行取引システムとして、24時間利用できるインターネットバンキングサービスを提供。
・コンビニエンスストアでATMサービスの提供を初めて開始。
・アメリカ中国信託銀行を組み入れ、融資事務所と17支店を含めると、海外拠点が53カ所となり、海外ネットワークを北アメリカまで拡大する。
・カスタマーサービスセンターがISO9002認証を取得し、台湾金融業界初のISO認証カスタマーセンターとなる。
・RMS(Relationship Management System)データウェアハウスシステムの導入が完了し、台湾初となるデータウェアハウスシステムを導入した金融機関となる。
・行動スコアリングと戦略マネジメントシステムをリリースし、国内銀行でいち早くバランススコアカードを導入した。
・ニューヨーク支店およびカナダ子銀行を設立し、海外拠点が29カ所となる。
・銀行およびクレジットカードRMSシステム情報の統合が完了し、銀行の利益獲得モデルを構築する。
・インターネットバンキングサービスを開始。
・台湾初のクレジット機能(VISA)を備えたキャッシュカードを発表。
・「国内ファクタリング業務」を開始し、国内で最も早くファ
・クタリングを開始した銀行となる。
2003
北京事務所を設立し、中国大陸市場を開拓。
2004
クレジットカード発行30周年を祝賀。
2005
九龍支店を設立し、両岸三地(中国大陸・香港・台湾)の華人に多様な金融サービスを提供。
・中國信託フィナンシャルホールディングを設立。
・市場初「変動金利(ARMs)」型住宅ローン商品の発売。
・当行OBU(国際金融業務支店)と中国大陸の14銀行が提携し、国際送金ネットワークを構築。当行と中国大陸の銀行が初めて業務交流の扉を開く。
・顧客に支払業務アウトソーシング「包括的決済サービス(e-pay)」を提供する初めての銀行となる。
・北京代表処を設立し、金融業に中国大陸進出の門戸が開かれて以降、初めての北京駐在の民営銀行となる。
・「インターネット即時分割払いサービス」を開始し、さらに多様で便利な支払いシステムを提供。
・I-Account銀行口座連携業務(I-account & Facility link)を開始し、顧客に最も速く・完全な国際金融サービスを提供。
・萬通商業銀行を合併買収。
・中国大陸の中国銀行江蘇支店と、両岸(台湾と中国大陸)初の金融業全般に関する契約覚書を締結。
・中国信託慈善基金会を設立。
・金融監督管理委員会から資産運用マネジメント業務の許可を初めて受けた銀行となる。
・香港九龍支店を開設し、両岸三地(中国大陸・香港・台湾)の華人に多様な金融サービスを提供。
・「運用リスク部門」を設立し、「新バーゼル合意」にいち早く賛同する。
・「ATM思いやり募金」を初めて実施し、ICキャッシュカードを持っていれば、セブンイレブンに設置したATMで気軽に募金できるようになる。
・第3回公益彩券(宝くじ)の発行権を取得。
2006
創立40周年、社員数は1万人を突破。
2009
南港本社の着工式。蕭万長副総統(一番左)と辜濓松会長が共同で主宰。
・創立40周年。信義本社ビルで盛大に祝賀。
・地下鉄や公共バスで使用できる悠遊連名カード(非接触型ICカード乗車券)を発行し、カード一枚で気軽に交通機関を利用できるようになる。
・香港支店と九龍支店が、正式に「人民元業務」と「越境貿易人民元決済業務」をスタート。
・中国信託「企業の社会的責任(CSR)報告書」がBSI国際認証を取得し、台湾初のAA1000・GRI G3の2つの国際審査基準に合格した金融事業者となる。
・銀行業界では初めて、「国家公益賞」を受賞。
・花蓮企銀を買収し、支店は台湾全土で142店となる。
・クレジット機能付きキャッシュカード「icashwave」を発表し、初めて電子マネーとクレジット機能が融合する。
・Yahoo!奇摩(台湾ヤフー)と共同で「Yahoo!奇摩軽鬆付(Yahoo!かんたん決済)」サービスプラットホームを構築し、インターネット売買の安全な取引環境を提供。
・タクシーのクレジット支払いサービスを開始。
・人民元の現金売買をスタートし、人民元との双方向両替サービスを開始。
・南港に新たな本社の着工。4,800坪を超える公共オープンスペースは、台北市の民間開発では最大規模となる。
・中国信託慈善基金会が初めて内政部による評価に参加し、「優秀」と評される。
2011
台湾初の民間企業による脱貧困モデル「福祉プロジェクト」を発表。
2011
メットライフ生命を合併買収し、保険事業に参入。
2012
上海支店を設立し、海外支店が67カ所に達する。
2012
辜濓松会長が、日本政府から「旭日重光章」を授与される。家族と記念撮影。
・中国大陸の第1回「グローバル慈善企業賞」を台湾の銀行として初めて受賞。
・台湾初の民間企業による脱貧困モデル「福祉プロジェクト」が正式に始動。海外では「台湾版貧困救済銀行」と呼ばれる。
・メットライフ生命を合併買収し、名称を中国信託人寿保険(中信人寿)に変更。保険事業に正式参入。
・辜濓松会長が、アジア商工会議所連合会(CACCI)の「傑出貢献賞」を受賞。
・辜濓松会長が、米アイゼンハワー財団「2011年傑出校友貢献賞」を受賞。
・上海支店を開設し、海外支店が67カ所となる。
・中国信託資産管理公司が出資した仲信国際租賃公司が上海本部を開設し、中華金融ネットワークの拡大を図る。
・中国銀聯と契約覚書(MOU)を締結し、両岸(台湾と中国大陸)の金融提携の新たなマイルストーンとなる。
・辜濓松会長が日本政府から、ビジネス業界最高の栄誉である「旭日重光章」を授与される。
・アジア商工会議所連合会の栄誉会長である辜濓松が、ネパール大統領から「特殊成就賞」を授与される。
・辜濓松会長がアメリカニューヨークで病没。顔文隆が中国信託ホールディングス会長を引き継ぐ。
2013
兄弟エレファンツのスポンサーとなり、台湾プロ野球をサポート。
2014
日本の東京スター銀行を買収し、謝恩パーティーを開催。
2014
「中国信託金融園区」正式に起用。
・海外業務の発展に伴い、中国信託ホールディングスと各子会社は、英語名をCTBCとする。
・中国信託証券投資信託股份有限公司が正式に設立。
・日本の東京スター銀行を買収し、日本市場の経営を強化する。
・台湾で初めて「宝島債」業務をスタート。発行額は10億人民元となる。
・兄弟エレファンツのスポンサーとなり、台湾プロ野球の永続的な発展をサポート。
・中国信託金融園区を開設し、南港経済園区に入居する初めての金融事業者となる。
・アジア銀行家協会(ABA)が、中国信託ホールディングス創始者の辜濓松に「終身成就賞」を追贈する。
・金融事業者として初めて、米ドル、日本円、ユーロの3種通貨決済機能付きクレジットカードを発行。
・中国信託慈善基金会とアメリカ司法部麻薬取締局DEA教育基金会が、協力覚書を締結し、連携して薬物乱用防止教育を推進することとした。
2015
第1回新舞台芸術祭を開催し、芸術教育の基礎を作り上げる。
2015
反薬物教育基金会を設立し、台湾企業の寄付による初めての反薬物専門の教育機関となる。
2016
5年連続して、女子ゴルフオープン大会を開催し、国際舞台で活躍できる新人選手を養成。
2016
創立50周年、台湾で最もグローバルな金融機関となる。
2016
第31回「子どもの未来に光をあてる」思いやり募金活動を実施し、さらに多くの恵まれない子どもたちの援助を継続する。
・台湾人寿と株式譲渡契約を締結し、保険子会社は「台湾人寿」の名称を引き続き使用する。
・広州支店を開設し、人民元を含む外貨サービスの提供を開始。
・マレーシアのクアラルンプール支店を開設し、マレーシア初の台湾資本の銀行となる。
・中国信託反薬物教育基金会を設立し、台湾企業の寄付による初の反薬物専門の教育機関となる。
・創立50周年。台湾史上初の9日間台湾一周ノンストップマラソンを開催。
・ミャンマーのヤンゴン、オーストラリアのシドニーに事務所を開設し、海外支店は107カ所となる。
・アモイ支店を開設し、中国大陸福建自由貿易試験区アモイ地区で初めての台湾資本銀行となる。
・業界をリードし、「生体認証ATM」と「スマホATM(カードレス)」サービスを発表。
・「中国信託ブロックチェーン実験室」を始動し、台湾初のR3コンソーシアム会員となる。
世界を想い
愛によって家族となる
愛に国境はなく、思いやりは人を選ばない。
愛のある場所、そこに家がある。
ベトナムのホーチミン市支店による公共福祉活動。現地の児童の学習状況を気にかけ、We are familyの精神を伝える。
中国信託の未来はどこにあるだろうか?中国信託フィナンシャルホールディング創始者の辜濓松は早くから、中国信託は海外進出すべきだと考えていた。
台湾初の「無任所大使」として、彼の国際観は社員に深く影響を与えた。台湾の国連脱退後、彼は自らの時間・資金・人脈を使って経済外交を推進しようと決意した。1年間で地球約20周分の距離を移動し、世界を視野に入れたビジョンを描いた。
We are family 海を渡り 愛の種を蒔く
We are familyの精神は、企業文化とともに海を渡り、次第に根を下ろしていく。海外支店の多くが設立後20年以上を経過しており、特にフィリピン子銀行やインドネシア子銀行等は、社会貢献に積極的に資金を投じ、ボランティア文化を高め、現地のコミュニティに活力と希望をもたらしている。
現地研究機構の2011年調査によると、フィリピン国民小学校の60%を超える児童は本が読めず、公立小学校にはほとんど図書館がなく、学習資源も不足している。現地の恵まれない子どもの読書力向上を支援するため、フィリピン子銀行とフィリピンNational Book Store Foundation, Inc.(NBSFI)が共同で、「Better Readers, Brighter Future(読書が未来を拓く)」活動を立ち上げ、移動図書館方式で、読書問題の改善に取り組みはじめた。
インドネシア子銀行は2012年に、開校20年のジャカルタ台湾学校に約1,500万新台湾ドルを寄付した。これにより、同校の第二校区が順調に着工し、幼稚園と小学部の規模拡大、教員の住環境の改善が図られた。また、教員間のネットワークができ、離職率が低下し、すべてが子どもたちにとってプラスとなった。2013年11月に、強烈な台風「海燕(ハイエン)」がフィリピン中部を襲い、6,000人以上がなくなり、数十万人が住む場所を失った。フィリピン子銀行は幸運にも被害を受けず、683名の社員も全員無事であった。目の当たりにした被災状況を「自分のこと」として捉え、フィリピン子銀行は、復興支援のために1,000万新台湾ドルを寄付した。
企業の社会的責任を果たすことに、中国信託は最も価値を置いている。企業の国際化が進むにつれ、この意識は海外拠点にも伝わり、温もりのある企業文化が形成されてきた。世界が家族となる。中国信託は、少しずつこの理想を実践している。
温かな思いやりに国境はない。フィリピン子銀行の「思いやりボランティア」で、子どもたちに物語を読み聞かせる。
国際化に伴い、企業の社会的責任の価値は海外でも根付き始めている。写真は中国信託銀行アメリカ子銀行ビル。
愛の循環が始まる
子どもたちの笑顔のため、
愛は大きな変化をもたらすと、
私たちはずっと信じている。
南投県新街国民小学校の少年野球チームの子どもたちは、野球を心から楽しんでいる。
光をつなぎ
永遠に照らし続ける
1985
台湾初の民間企業による思いやり募金活動がスタートした。
2016
30年以上続く「子どもの未来に光をあてる」活動は、台湾史上最も歴史のある慈善募金活動である。
1960年ニューヨーク。雪が舞う頃、クリスマスツリーが輝き始めた。人々は空を見上げ、街は祝福の音楽とぬくもりに包まれていた。生命のなんと美しいことか!中国信託フィナンシャルホールディング創始者辜濓松は心を動かされ、この時の想いが社会公共福祉活動に取り組むきっかけとなる。
辜濓松は、アメリカのタイムズスクエアでイルミネーションの歓喜と温かさを実感した。帰国後、彼と夫人辜林瑞慧は台湾の恵まれない子どもたちが貧しさゆえに身を縮め寒さをしのいでいる光景を見かけ、それを忘れられなかった。あるクリスマス晩餐会の後、夫人は手をつけていない食べ物をもったいないと感じ、近くにある孤児院と児童施設にその食べ物を差入れた。この善意は多くの人達に影響を与え、辜濓松は1985年に「子どもの未来に光をあてる」思いやり募金活動を発起し「ひとつの光が、ひとつの命を照らす」をテーマにボランティアを募集し、恵まれない子どもたちに気を配った。
愛によって火を起こし、ひたすら繋いでいく。これも中国信託慈善基金会会長の辜仲諒が描くビジョンである。彼は「台湾から貧しい子どもをなくす」だけでなく、「台湾の社会問題を徹底的に解決する」方法を考えていた。
公共福祉活動に取り組んで30年
愛はより遠くへと伝わる
光を灯すだけでなく、高い壁も乗り越えなければならない。30年以上にわたって公共福祉活動に取り組んできたが、ここに至るまでには大きな困難があった。夢はあっても参考になる前例がない。それでも中国信託は言い訳せず、自らの力で取り組み、改善を続けてきた。早くから寄付活動を行い、最近では外部からも寄付を集めたり、社会福祉専門機関と連携したりするなど、活動範囲を広げている。現在、中国信託の公共福祉活動は新しい局面を迎えている。
公共福祉活動は、ボランティア・スポーツ・芸術文化・教育・薬物防止の5本の柱からなり、着実に台湾社会への思いやりを形にしている。扶助・支援・寄り添い・分かち合い・育成・見守りまで、あの巨大なクリスマスツリーのてっぺんの光のように、中国信託はたくさんの願いを持ち、ひとつの光が連なって高いところに向かって輝き、多くの人がその光を見つめている。この想いを明日へと繋ぎ、灯された火がより長く遠くに伝わり、この地をより美しくすることを中国信託は心から期待している。
夢のために 勇敢であれ
5月の暖かな午後。太陽が新北市尖山国民中学のグラウンドに置かれたベッドを温めていた。約400名の生徒は、物珍しそうにそこに横たわる「大物」を見ていた。「誰が私の身体を飛び越えられるかしら?」この言葉を発した人物こそ、世界的ダンサーの許芳宜である。彼女は身体を横にしたり、脚を組んだりして「変形ハードル」を作り上げた。皆最初は恥ずかしがって、彼女を軽く「跨ぐ」だけだったが、先生の踊りにあわせて飛び越えるうちに、度胸がつき後方宙返りに挑戦するまでになった。この授業で身体が解放され、皆に笑顔と勇気が戻ってきた。
中国信託><許芳宜 僻村でともに踊り 子どもたちの夢を応援する
「実はとても緊張していました。子どもたちがふらついて、身体を踏むんじゃないかと怖かったのです。しかし、私は『初めの一歩を踏み出して』と励ましたのです」と許芳宜は語る。「初めの一歩」はとても重要である。なぜなら、ここの子どもたちは、環境にも家庭にも制約があり、将来に希望を持てず、「敢えて」夢を持たないのだ。中国信託文教基金会は、僻村での「共舞」に彼女を誘った。これこそ「勇気をもって夢を追う」ことを伝える力なのだ。彼女は、国立芸術専科学校を受験し、バレエはたったの3点だったが、夢を諦めず世界的に有名なダンサーとなった。彼女は「想像すると怖くなって、前に進めなくなります。しかし、勇気を出して踏み出せば必ず乗り越えることができるのです」と子どもたちに伝えた。
都市と農村の垣根を越え 豊かな芸術を蓄積する
中国信託は2009年から僻村への芸術文化普及活動を始め、「紙風車319農村児童芸術プロジェクト」を支援している。取り組みから9年、都市と農村の368カ所で公演を支援している。紙風車文教基金会執行長の李永豊はこう話す。「中国信託は最高のパートナーです。助けが必要な時、いつも親身になってくれます。私たちはお互いに信頼し合っており、中国信託の活動は真の公共福祉活動だと信じています」。この信頼関係は最も重要な精神的支柱であり、李永豊にとってお金にも代えられないものである。中国信託は模範企業の地位を確立したと感じており、「50年後、すべての企業がこのように取り組んでいれば、中国信託は成功したと言えるでしょう」。
紙風車文教基金会が進める農村児童芸術プロジェクトを支え、子どもの芸術文化への視野を広げる。(上写真)
中国信託文教基金会は「大師伝承(巨匠による伝承)」講座とワークショップを開催し、許芳宜と学生たちはボディランゲージで楽しみながら「ボディアート」を創作した。
子どもの視野を広げ、独創性を育むことこそ、子どもの未来への投資である。「世界の芸術」に触れてもらうため、中国信託は文教基金会が開催する「新舞台芸術祭LOVE & ARTS」に2年間で約3千人の僻村の子どもたちを招待した。その9割が文化芸術ホール初体験であった。台南市新嘉国民小学校では、公演前、特別に「芸術鑑賞前の授業」を設け、全校生徒に劇場マナーを教えた。子どもたちは芸術文化に親しみ、視野を広げた。
子どもたちに芸術の美しさを見せることは、変化のチャンスを創ることである。中国信託がこの活動に取り組むことこそ、芸術の蓄積を豊かにすることである。芸術が都市と農村の枠を越え、心の距離を縮め、一人ひとりの心の中に残ることで、「夢を持つ勇気」が湧いてくる。そうなってこそ、さらに遠くを目指せるのだ。
中国信託文教基金会は、「育教於芸(芸術によって育成し教育する)」という理念を積極的に広め、2015年から、新舞台芸術祭と伝承講座に、白先勇・許芳宣・董陽孜・魏海敏(左から)等著名なアーティストを招待し、多くの学生に「世界の芸術に触れる」機会を提供している。
一緒に夢を描こう!写真は嘉義県中庄地域にある「台湾の夢プラン」拠点の20名が、児童と地域住民をサポートして描いたもの。
彰化県埤頭郷大湖地域に「台湾の夢」活動の拠点が初めて置かれた。会長の辜仲諒(左から5番目)と子どもたちが一緒に地域の農作を体験した。
公共福祉活動の先駆者たち
「ママが恋しい…」国民小学校2年のシンシンは、身長100 cmに満たない体重もたった12 kgの小さな女の子である。母親は都会に出稼ぎに行き、彼女は村の親戚の家に預けられている。以前、誰も見ていない隙に母親が帰って来たかもしれないと、かつて暮らしていた家に帰ったことがあるが結局、母親は戻っていなかった。彼女は孤独だった。その後、彼女は「子どもの未来に光をあてる」慈善基金を介して、僻村学童経済支援プログラムによる支援を受けられるようになった。
この基金の存在価値は、子どもの未来に光と温もりを与えることにある。シンシンのように貧困状態にある子どもたちに温かい手を差し伸べ、台湾という地により多くの幸せを生み出したい。それこそ地域社会に深く根ざしてきた中国信託のビジョンである。早くから募金を募り、社会福祉機構や地域ボランティアと協力し、「人が求めるところに自分たちの責任がある」をモットーに共に歩んできた。
第二の家 子どもたちの家族として
中国信託は、僻村に住む36%の子どもが、放課後も村をぶらついたり、ネットカフェで時間つぶしをしていることに気がついた。また、その多くがケガをしたり、見知らぬ人からの嫌がらせを受けたりしている。さらに半数が自ら夕食を作らなくてはならず、食事の有無も中身さえも、誰も知らない「隠れ弱者」となっている。そのため、慈善基金は各地でヒアリング調査を実施し、「台湾の夢」活動を始めた。
国民小学校6年のレイは、学校で仲間外れにされ、同級生の女の子は、彼女を「臭い、髪の毛がベトベト、不潔」と言って誰も遊ぼうとしなかった。ボランティアは、見守り活動の中で、彼女には父親しかおらず、その父親はゲームに夢中で彼女に無関心であることを知った。父親は、彼女の成長に合わせて下着を買わなくてはいけないことや、歯磨きや入浴といったことさえ、気にも留めていなかったのだ。「台湾の夢」教師の昀瑾は、「子供は放っておいては、きちんと育たないのに…」としみじみと言う。
9歳のオンは、両親が離婚し、今は祖父母と住んでいる。授業中は走り回り、同級生をからかい、集団行動ができず、あだ名は「手綱が切れた馬」である。放課後、ボランティアは「台湾の夢」活動で子どもたちの読書や宿題に付き添い、夕食を食べさせた。彼らは7時に帰宅したが、「オンは、家には誰もいないから」とすぐに戻ってきた。この言葉を聞いた時、ボランティアは、「台湾の夢」活動が彼らにとって第二の家であることを知った。ここには、血のつながりはなくても家族以上に深い絆がある。愛情を注ぐことで、子どもたちは、心を開き変化していくのだ。太平洋を臨む南澳東岳地域のタイヤル族の原住民村落は、経済的に貧しく、多くの親は出稼ぎに行っている。子どもたちは汚い言葉を使うだけでなく、とても狭い世界しか知らない。「台湾の夢」活動から村に戻った若者欣美は、様々な業界の協力者を探し、子どもたちにいろいろな話をした。子どもたちは、今では医者やマジシャン、探検家等になる夢を持つようになった。彼女は「彼らの夢はよく変わるので、明日はまた違う夢を語るかもしれません」と笑いながら言った。
生きるすべを教える
著名作家の龍應台の言葉に「表面を窺うだけではなく、社会の深遠を少しでも理解しようと外に目をやり、たくさん歩いて、注意深く観察すれば、今まで知らなかったことに出会うだろう」とある。中国信託はこの言葉を大切にしている。援助の手はいくらあっても足りず、結局は「生きるすべ」を教えることが、僻村の子どもたちが自らの未来を切り開く手助けとなるのだ。
中国信託反薬物教育基金会は、特別展示を「生きた」ものとし、ハイテク技術を駆使して、多くの人に薬物の真の姿を伝えた。(上写真)参観者からは大きな反応があり、薬物撲滅の緊急性と必要性がさらに浮き彫りとなった。
薬物汚染どうして無関心でいられるだろうか
以前、3歳の子どもを抱えて、病院に駆け込んでくる人の姿があった。子どもが誤って薬物を口にし、死の淵をさまよっていたのだ。その子は彼の腕の中で短い生涯を閉じた。「母親は薬物のせいで目はうつろで、全く反応がありませんでした。私はこの出来事にショックを受けたのです」。当時、海外ボランティアを務めていたその人物こそ、中国信託反薬物教育基金会会長の辜仲諒であった。この悔しさが彼の心から離れず、中国信託が薬物乱用防止教育に取り組むきっかけとなった。
薬物が子どもに与える影響は計り知れない。慈善事業に長く携わる会長の辜仲諒が僻村を訪れたとき、薬物中毒の母親をもつ子どもに飴をあげようとしたことがある。しかし、その子は飴を受け取るどころか、怯えた眼差しで彼を見つめた。「これほどまでに見捨てられた眼を見たことがありません。人に対する信頼を失った眼を一生忘れることはできません」と彼は振り返る。その子との出会いによって、彼は改めて薬物撲滅の決意を強めた。同基金会は、2015年8月に発足し「薬物を知り、薬物を撲滅する」薬物乱用防止教育を推進することにより、子供たちが薬物の恐さを理解することを願い、活動を続けている。
調香師が薬物の匂いを再現する
「ケタミンの匂いを知っていますか?」「臭くて、とても鼻につく匂いです」。
薬物が人をどのように変えてしまうか知っていますか?「実年齢よりもとても老けてしまい、非常に恐ろしいものです」。
薬物を知ることで薬物を撲滅できると考え、中国信託は大胆な挑戦をした。薬物撲滅特別展示を「生きたもの」にするため、様々なハイテク技術を駆使し、薬物汚染に無関心な人々の「五感」に訴え、薬物の真実を知ってもらうのだ。台湾で初めてケタミンの匂いを再現し、多くの人の好奇心を誘った。匂いで薬物中毒になることを心配する人には、アロマオイルで再現したことを説明し、安心して体験してもらった。多くの人に薬物の匂いを知ってもらうため、特別に調香師に薬物の匂いの再現を依頼したのだが、調香師は当初この取り組みに協力することに躊躇した。この取り組みは必ず薬物撲滅の一助となると説得し、ようやく協力することを承諾してくれた。4ヶ月にわたる実験を繰り返し、ついに「薬物の匂い」が完成した。
特別展示では、ほかにもスクリーン上で、薬物吸引後の容姿を再現した。「映像ボックス」では、薬物から更生した人が画面に映し出され、参観者は膝を突き合わせてその話を聴くことができる。さらに、牢獄を再現した空間をつくり、薬物吸引後に監獄に入れられた無力感をイメージした。こうして「無感」から「五感」に、薬物乱用防止教育が一般の人たちにも身近に感じてもらえるようにした。
希望こそ 子どもがもつべき眼差しである
「もっと早くにこのような展示があれば、息子が今これほどまでに苦しむことはなかったでしょう」。新竹まで展示を見に訪れた母親は、心の痛みを隠すことができなかった。仕事が忙しく、家庭を顧みることができなかった頃に、中学2年の息子が薬物に手を出し、膀胱を傷め今も治療を続けているそうだ。彼女はこう話す「薬物問題は非常に深刻ですが、向き合おうとする人はめったにいません。周りの友人も薬物と聞いただけで話を止めてしまいます。そのため、得られる情報は限られています。もっと多くの人に知ってもらえるようにいろんな場所で、この展示を開催してほしいです」。
台湾には、彼女のように悩んでいる親はたくさんいる。そのため、中国信託は学校を巡って薬物撲滅の展示を行っている。3D映像や劇などで、学生たちが楽しみながら学べるようにし、薬物に手を出さないよう指導した。
薬物撲滅は長い闘いである。中国信託がこの取り組みを始めたとき、多くの人から無駄骨だと言われた。しかし、その難しさと深刻さを知るにつれ、必ずやらなくてはいけないと実感した。1971年にニクソン元米大統領が「反薬物戦争」を始め、莫大な資金と人材を投入してから46年が過ぎたが、私たちはこの地球規模の戦いに完全に敗北している。私たちは、どうして無関心でいられるだろうか。
たった1枚の紙が
大学の運命を大きく変えた
下位ランクから僅か1年で東呉大学に肩を並べた。閉校寸前の私立大学が、大学ランクで2年連続トップ20に躍り出たこの物語は、たった1枚の紙から始まった。
2017年3月、インドネシア東ジャワ高等経済学院の校長ルトフィ博士は、3名の理事とともに中国信託金融管理学院を訪れた。彼らは、インドネシア高等教育認定委員会から同経済学院に対するA評価を受けるため、海を越えて中国信託金融管理学院の経験を学びにきたのだ。
1枚の紙に「公益優先、弱者支援」と書いてある。この学校理念に、中国信託慈善基金会会長であり、中国信託金融管理学院創始者でもある辜仲諒は、深く感銘を受け、中国信託グループが多額の資金を投入し、国際金融人材の育成を学校運営の信条とした。
学校は財団に売却されたと冗談で言われたことがある。しかしその「財団」は、この大学を良くするため、すべてを投げうって協力した。始業までわずか3か月。中国信託は社員総動員で学生集めに尽力し、中国信託フィナンシャルホールディング総経理の呉一揆などCEOクラスの幹部は、ためらうことなく学院専属の講師を引き受けた。産学連携に加え、手厚い奨学金や成績優秀者の就職を保障した結果、新入生150名の募集に対し、400名の応募があった。そのうち、成績が国立大学入学基準に達した者は76人で、また入学登録率は100%であった。このことは、教育部高等学校改革の「模範」教材となった。
人生の可能性
台湾と日本のハーフである岩原勇磨は、財経法律科の2年生である。母親は彼が幼い頃に他界し、彼は親戚の援助により中学を卒業し、高校にも合格したが、生活のために中退し、働きながら台南第一高校の夜間部を卒業した。大学でも学業と仕事の両立を考えていたが、大学は「希望奨学金」を提供し、彼が学業に専念できるよう取り計らった。「人生には多くの可能性であふれていると、急に思うようになりました。留学も遠い夢ではなくなったのです」と彼は話した。
茜蘋は、母子家庭で育った。大学進学で母に負担をかけることを心配し、一度は進学も金融業界で働く夢もあきらめようとした。ちょうどその頃、彼女は「希望奨学金はあなたの人生を輝かせます」と書かれた1枚のチラシを手にする。彼女は援助を受け、人生が大きく変わった。
長年、僻村の教育問題に取り組む創始者の辜仲諒は、感慨もひとしおである。孤児院出身者は、大学受験にほぼ100%失敗してしまう。しかし、その中でも能力がある人には、多様な可能性やアイデアを見いだすことができる。「希望奨学金」を提供し、「Love for kids」から「Love for Youth」に拡大することで、恵まれない若者が、教育を通して夢を実現し、人生を変えるチャンスを手にすることを彼は願っている。
知識は力なり
貧困の連鎖を断ち切るため、中国信託金融管理学院は、恵まれない学生を支援し、毎年100人以上の国際金融人材を育成している。もしかすると、十数年後にはここの卒業生が、中国信託CEOや国際金融機関の幹部の席を埋め尽くしているかもしれない。
閉校寸前の私立大学が一躍、2年連続トップ20にランク付けされる大学となった。中国信託金融管理学院は、台湾の高等教育の歴史に新たな1ページを開いた。
将来の国際金融人材を育成することを信条とし、中国信託金融管理学院は、産学連携によって多くの学生の夢の実現を支援している。
不忍孩子失望
守護國球捨我其誰
「台湾版甲子園」とよばれる中国信託杯黒豹旗全国高校野球大会では、青春の野球魂が燃え上がっていた。
私が野球を守る
中国信託が積極的に野球の普及や「スポーツ公益」に取り組んでいる理由は、1通のメールからである。数年前、経営難のプロ野球チーム「兄弟エレファンツ」が解散する、というニュースが報じられた。中国信託慈善基金会が長年支援してきた僻村の子どもたちが、教師を通じてメールで会長の辜仲諒に助けを求めてきた。「野球は私たちの親です。絶対に失いたくありません。野球は生活の慰めです。毎日学校が終わって、家で野球を観ることが楽しみです。『兄弟エレファンツ』を残してください。解散させないでください」。子どもたちの純粋な願いは、これ以上ないくらいに胸を締めつけ、心を動かした。彼らを失望させないため、辜仲諒は中国信託が再びプロ野球を支援するよう積極的に助力した。野球をもう一度支援し、子どもたちの夢を守り、野球にも公益の一面を持たせたのである。
愛のバトン 人生の大逆転
「コーチ、野球がしたい!」これは野球に夢を抱く子どもたちの共通の叫びである。夢を実現するには、多くの人の支援を必要とする。バス運転手の鄭新勇は、野球を愛し馬祖の子どもたちの野球コーチとなった。基隆市東光国民小学校コーチの陳俊光は、結婚積立金を崩し、新しい住民や恵まれない子ども、片親の子どもが野球を続けられることを支援した。このように「心ある人」は、中国信託が「愛のバトン」活動に取り組むうえで、大切な盟友である。
2016年、中国信託は、僻村や都市のはずれにある25の少年野球チームを支援した。安定した資金とプロによる野球指導を提供し、子どもたちに人生を大逆転するチャンスを創り出している。南投県新街国民小学校少年野球チームは以前、学校の設備が限られていたため、子どもたちは大講堂の硬い床の上に寝るしかなかった。冷たい風が寝袋を突き抜け、夜中のトイレはまるで罰ゲームであった。また、メンバー18人のうち半分以上が風邪をひき、鼻水を流しながら練習をしたこともあった。2014年に「愛のバトン」活動に参加し、台湾彩券(宝くじ)に当たった方の好意で、本物の寮を建てることができた。「良い眠りにつく」というささやかな夢が叶ったことに、子どもたちは「良いプレイをする」ことで恩返しをしてくれた。2016年の第1回中国信託杯で優勝を勝ち取ったのだ。小さなプレーヤーは「将来はプロ野球選手になる!」と自信満々に話す。
2015年に使用を始めた屏東中国信託公益園区には、設備を完備した練習場があり、野球が地域に根付く後ろ盾となっている。(上写真)
中国信託杯黒豹旗は 青春の野球魂に火をつける
中国信託は、僻村の少年野球支援のほか、高校球児のために「台湾版甲子園」(中国信託杯黒豹旗全国野球大会)を創設した。レベルや性別を問わないシングルトーナメント制で、普通の部活動生にも訓練選手やプロ選手と対戦するチャンスがあり、それゆえ自分の野球魂を注いで激戦を繰り広げるのだ。
中国信託がスポーツ公益に力を尽くすのは、地域に根ざして野球の新しい芽を育てるためである。そして良い成績を残した優秀な選手が国際舞台に立てるよう支援するためである。スポーツは、一種の公共福祉活動の場である。企業が支援し、スター選手が手本となることで子どもたちの夢を応援し、社会に思いやりの循環を示し、野球を通じて世界が台湾に注目することを願っている。
女性の力を伸ばし 選手の自律を大切にする
直径7 cmの野球ボールから直径4 cmのゴルフボールまで、夢のためにボールは回り続ける。一つのボールが人生の目標を生み、称賛を受けるチャンスを生む。優秀な女子ゴルフ選手を世界の舞台に送り出すことを目指し、中国信託は40年にわたり、一つのボールで彼女らに人生の目標と称賛を得る機会を与え続けてきた。
優れたアスリートは皆、夢のパフォーマーである。中国信託が支援する女子ゴルフ選手の盧曉晴の姿には、その本質を見ることができる。彼女は19歳で単身アメリカに渡ったが、4年間で1勝もできなかった。24歳で日本に転戦したものの、最初の3年間は勝つことができなかった。
「あきらめるべきか?」
「ゴルフは人生の縮図です。早くからあきらめてはいけません。何が起こるかは分からないのです」。ゴルフは、黙して追い求める孤独なスポーツであることを彼女は知っている。最後に勝つべきは自分自身なのだ。続けることが唯一の道であった。キャリア8年目となる2013年に、彼女はついに優勝を勝ち取った。まさに「信念を持ち続けた」からこそ、世界の舞台に立つという「夢を実現」したのだ。日本女子プロゴルフ協会の大会に彼女が出場するときには、いつも「Teresa Lu」と大きな拍手が沸き起こる。多くの日本のファンは、彼女に称賛をおくる。
盧曉晴は、「台湾女子ゴルファーのナンバーワン」と呼ばれ、中国信託が支援する日本で活躍するゴルフプレーヤーである。優れたスポーツマンシップで、多くの人を励まし続けている。
山を家として
支え合う
南港中国信託金融園区は、
台湾の「ロックフェラーセンター」である。
年末になると、南港中国信託金融園区では、クリスマスツリーのイルミネーションが輝き、スケートリンクも特設される。祝福ムードに包まれ、子どもの笑い声が響き渡る街並みは、ニューヨークのロックフェラーセンターを思い起こさせる。しかし十数年前、この場所は街灯もなく一面が畑だった。
辜濓松にとって、企業本部は、社員が一丸となってつくりあげた「家」である。家族の未来のため、20年以上前に雑草が生い茂る信義区を開拓して、新しい企業本部を建てた当時の総経理辜仲諒は、移転初日野犬に吠えられてオフィスに入れない社員を警備に頼んで助けたことがある。
信義区に企業本部を建設した理由は、発展が見込まれたためであり、南港区も同様である。辜濓松と辜仲諒の先見の明に感服するとともに、中国信託という大家族に対する愛を感じる。家族のために常に最高のものを与えようと、5年間をかけて建設した中国信託金融園区は、建築概念を打ち破り、四合院(しごういん)のようなレイアウトを融合させた空間配置にし、「山」字型の3棟のスカートビルのデザインとした。Familyをイメージし、同時に株主・顧客・社員がお互いをサポートし合い、新しい仕組みを創り上げていくという意味合いを持たせた。中庭は、常に家族みんなの声が響き渡っている。
辜濓松は、移転を直接見ていない。しかし、新しくなった企業本部には、いつも活力と笑い声があふれている。A棟1階のホールには大型デジタルアートが設置され、台湾固有の動物や植物の美しさを四季折々に楽しむことができる。彼が伝えようとした愛は、共有・協働するこの家にあふれている。
永遠に光を灯し続けよう
1960年代、ニューヨーク・ウォール街のビル群には、真っ先に世界を変えてやろうと夢を抱くドリーマーたちが多く集まっていた。その頃、台湾からの留学生の多くは、仕事や定住でこの地に留まることを選んだ。しかし、辜濓松は母親からのこの一言で、ためらうことなくウォール街での仕事を手放して台湾に戻った。「今の台湾は人材を必要としている」。
当時の台湾は、ようやく資本市場が発展し、企業の株式上場が進んでいるところだった。彼はウォール街での経験を活かして、台湾証券取引所で働く叔父の辜振甫をサポートし、1966年には共同で、台湾初となる証券引受会社「中華証券投資公司」を設立した。
「台湾に新しい風を吹かせよう」辜濓松は心の中でこう誓った。名門の家柄に生まれたものの、不遇の運命が若かりし頃の彼に苦難と試練を与えた。アメリカから戻った彼を待ち受けていたのは、いばらの道だった。わずか19人でのスタートだったが、遠大な志をもち、一歩進むごとに未知の可能性に足を踏み入れていると信じ続けた。
金融業界は、政府の厳しい監督下に置かれている。1971年に「中国信託投資公司」へと改組し、総経理となった辜濓松は、数々の困難と規制を乗り越え、調整を重ねた。彼はパイオニアとなり、チームを率いてマイルストーンを達成し続けた。例えば、Vespa(スクーター)チームによるキャンペーン活動。中国信託は、台湾の金融機関で初めて、自主的に顧客訪問を行った。また、台湾初のクレジットカードを発行したり、台湾の銀行では初めてカスタマーセンターを開設するなど、台湾金融業界のサービス発展のため、新しい手本を示した。
これらの業績によって、中国信託は今日のように全世界に広がり、2万7,000人を超える社員が働く金融機関となった。辜濓松がかつて心の中で誓った熱い想いは、いつも彼にこう思い起こさせる。「他の人がやらないことをやろう、困難や規制を乗り越えよう、そして自身の価値と時代の意義を創造しよう」。若かりし頃の彼·名門の出の彼·事業に成功した彼、過去のどの段階においても、彼は楽な道ではなく、苦難の道を選んできた。ひたすら前進し、中国信託を台湾初の信託投資会社から1992年には商業銀行へ、2002年には金融持株会社へと成長させたのだ。この情熱ですべてのチームを励まし、台湾金融業界の成長を牽引してきた。
世界を変えるのは営業の数字だけではない、辜濓松はこう信じている。1985年に中国信託は「子どもの未来に光をあてる」ための募金活動をスタートさせた。これは、台湾初の民間企業による恵まれない子どもたちへの慈善募金活動であり、その後30年以上にわたって、この活動は続いている。
辜濓松は台湾初の「無任所大使」として、長年にわたってAPECのCEO代表を務め、幾度となく総統とともに海外を訪問し、政府要人との交流を深め、外交開拓に尽力してきた。彼は台湾への熱い思いで、国・社会・商工業界・金融業界にその身を捧げ、各方面からの称賛と支持を集めている。1971年に政府が国連を脱退したとき、台湾の外交は大きな挫折を味わった。厳しい国際条件に直面しても、辜濓松は勇敢に立ち向かい、自分の時間·資源·国際的な人脈を活かして経済外交を推し進めた。台湾の国際的地位を守ることを自身の使命として、経済外交の縁を固く結び、優れた外交の成果を上げ歴史に名を残した。その結果、政府から「一等外交褒章」、「二等景星勲章」、「二等卿雲勲章」、「経済専業褒章」等の栄誉を授けられた。また、国際的にもホンジュラス·パラグアイ·日本·米アイゼンハワー財団·アジア商工会議所連合会·スロバキア商工会議所連合会など、各国政府や団体から数えきれないほどの栄誉を授けられ、「経済外交の見えない翼」と称賛された。このことは、彼が困難を恐れず、信念と勇気をもって社会的責任を背負ってきた意義をはっきりと示している。
中国信託ホールディング創始者の辜濓松記念ブロンズ像は、南港中国信託金融園区A棟1階ホールに設置されている。彼の生涯をかけた貢献に感謝し、彼がこの世を去った12月6日を特別に中国信託周年記念日とした。
家のために働くすべての人に感謝する
数え切れないほどの感動と感謝を表すために、中国信託は2016年の創業50周年を特別な方法で祝うこととした。中国信託はHome Run Taiwan台湾一周リレーマラソンを開催し、各界の共同参加を呼びかけ、徹夜でリレーし故郷を走り、人々と土地の美しさを感じ、台湾への愛を結集した。総距離1,000 km、連続200時間のこのリレー、中国信託が皆と手を携えて残した記録であり、これまでの50年の歴史と同様、中国信託のイノベーションと努力の結晶である。
50年間、中国信託は多くの困難に挑んできました。たくさんのサポートがあったからこそ、穏やかに歩むことができ、金融分野で逞しく成長することができたのだ。特に社員の頑張りに感謝をしなければならない。自分の家庭のためだけでなく、中国信託という大家族、さらには台湾というこの地のために社員が流した汗は、中国信託の心に深く根ざし、お互いを支え合う「大家族の精神」となった。この感動は、「We are family」というブランド精神となり、きめ細やかで行き届いたサービスを顧客に提供することにつながっている。
We are familyは、企業のブランド精神であるだけでなく、すべての社員の信念である。家族と同じように顧客を愛し、社員を愛し、株主を愛する。中から外へ、小から大へ、誠実に仕事をこなし、家庭を顧み、パートナーシップというポジティブなエネルギーによって、愛と思いやりを広げていく。そして、多くの人に影響を与え、公益活動に参加し社会に還元していけば、台湾の未来はさらに美しくなるはずだ。
中国信託は、革新を続け全方位型の国際金融サービスの土台を築いている。経営業績と利益は年々拡大し、中国信託はさらに国内外から多数の表彰を受けている。表彰数は毎年100を超え、年々増え続けている。中国信託がここまで成長できたのは、国内全体の経済成長・すべての顧客の信頼と支持によるものであり、社員の無私の貢献によるものである。
中国信託は、台湾金融界のリーダーとしてさらに努力していかなければならない。「思いやり・プロ・信頼」というスローガンを守り、中国信託は創業100年を目指して邁進する。株主・顧客・社会という3者の利益を達成し、社会に還元することで企業の永続的な価値を高め、より多くの笑顔と感動を創り上げていく。
愛だけがすべてを乗り越える
19年前、私が総経理を任されていた時のことです。新しい銀行のコアバンキングシステムを推進するため、副総経理クラスの幹部およそ20名とアメリカに足を運び、現地を視察しました。ウェルス・マネジメント業務を導入するために2年という時間を費やし、海外に赴いて経験を積み、市場を調査し、資産運用チームを発足しました。そうしてようやく、中国信託は台湾で第1号となるウェルス・マネジメント免許を取得しました。これらの努力が、中国信託を全台湾で「経営実績ナンバーワン銀行」「最も稼いでいる銀行」に押し上げたのです。しかしある日、一人のお客様の声が、私の心に“ズシン”と重くのしかかりました。それは「この銀行は、功利的で成金風を吹かせている。会社と株主の利益のことしか頭にない」という声でした。
当時の企業にとって、財務諸表上の立派な数字を追求することこそ正義でした。私の心の中にある考えが浮かびはじめました。「この常識を覆そう、そして中国信託を「愛心(思いやり)企業」に育てよう」という考えです。2004年、私は中国信託慈善基金会を設立し、企業ボランティア文化の推進に乗り出しました。2005年に公益彩券(宝くじ)事業に手を挙げたのは、台湾彩券で得た利益のすべてを社会福祉に還元しよう、という気持ちが出発点です。これこそ、私たちの誓いであり、台湾彩券は恵まれない人たちにとって「夢への懸け橋」となりました。
このような考え方をするようになったのは、私の祖母が公共福祉活動に熱心に取り組み、恵まれない人たちを献身的にサポートする姿と、両親が手本となって教えてくれたことが大きく影響しています。私が常々思うことは、やはり先人たちの導きがあってこそ、その力が子々孫々に受け継がれ、よりいっそう輝きを増す、ということです。5年前、私たちが僻村の子どもたちの支援に力を入れていたとき、台湾プロ野球の「兄弟エレファンツ」が解散するというニュースが報じられてきました。実は中国信託は、1996年にプロ野球活動を応援するため、「中信ホエールズ」というプロ野球チームを立ち上げていましたが、野球賭博問題が発生し、企業イメージが大きく損なわれる可能性があったため、本来であれば活動を中止せざるを得ない状況でした。しかし、私たちは活動を止めませんでした。それは、基層野球(地域での野球活動)をバックアップするためです。私は、お金や物が不足している地域の子どもであればあるほど、野球に将来の夢と希望を抱いていることを知りました。なぜなら、台湾プロ野球が風前の灯火だったとき、多くの子どもたちから、コーチや先生を介してこのようなメールが私に届いたのです。「野球が唯一の心の支えである」と。子どもたちの夢と希望が泡となって消えゆくことに、私たちはどうして耐えることができるのでしょうか。私たちは再び奔走し、中国信託が再度プロ野球をサポートできるよう働きかけ、ボトムアップで「愛接棒」という少年野球・青少年野球連盟を設立し、台湾版甲子園「黒豹旗」を開催しました。また、台中運動家成棒隊(台中アマチュア野球チーム)をサポートし、様々な形で野球を楽しめる環境を作り上げました。少なくとも今、私が胸を張って子どもたちに言えることは、「努力さえすれば、自分の未来がそこに開ける」ということです。
一人の人間や一つの企業が単独で社会を変えるのは、とても難しいことです。しかし、もし中国信託が率先し、より多くの志ある人たちに参加してもらえたなら、この力はきっと台湾をより良い地へと変えていくことでしょう。19年前、私は社会福祉活動を広げようと考えました。そして、19年後、私たちは本当に変えることができたのです。
中国信託がこの活動を続ける理由はどこにあるのでしょうか?慈善活動を始めてから、台湾のために裏方で汗を流している多くのヒーローに出会いました。その姿が、私たちの原動力となっているのです。台湾各地で志を同じくするパートナーを探し、「信扶専案(福祉プロジェクト)」のボランティアやアドバイザー・「愛接棒」の野球コーチ・校長や教員、そして「台湾の夢」活動の拠点がある20ヵ所の僻村地域の地元の年長者たちに出会いました。幸運にも私たちは彼らと一緒に台湾のために尽くすことができているのです。私は彼らにこう伝えたい。「あなた方は台湾の恵まれない子どもたちの家族です。あなた方はみな台湾のヒーローです」。
台湾は愛と思いやりにあふれた地です。私は、中国信託がさらにがんばり続けるパワーをもち、より多くの社会的責任を背負い、まだ重視されていない社会的ニーズに力を入れ、人々の心の中に命の火を灯し、恵まれない家庭や子どもたちの未来を明るく照らすことを約束します。そしてそこから「愛の循環」がスタートすることを期待しています。私たちは、生命(いのち)が生命(いのち)を支える、という努力を続けるでしょう。私は信じています。愛だけがすべてを乗り越えると。
緑のベスト
愛のエネルギー
「緑のベスト」には、
どんな力があるのだろうか?
それは、着てみれば分かります。
毎年年末になると、中国信託のボランティアが街頭で「子どもの未来に光をあてる」募金活動を始める。中国信託証券投資信託会長の陳国世は、初めての街頭募金を思い出し「緑のベストを着ると自然に力がわき、活動を続けたくなる」と話す。
異なる世界を見る
「緑のベスト」は、中国信託のボランティアが違う世界を見て感じたことから生まれた。12年間ボランティアをしている王惠卿は「私たちは寄り添うだけです。むしろ子どもたちから多くを学びました」と話す。彼女は、北区児童の家にいる子どもの多くが人生の不合理を知っていると気づいた。「しかし、彼らから生命の強さを見た」と彼女は話す。癌を患った彼女は、一旦仕事を離れて治療を続けていたが、その間も子どもたちとメール交換をしていた。皆の励ましで、彼女は病魔に打ち勝ち、ボランティア活動に戻った。彼女は「ボランティアは、私の人生を楽しく充実させ、愛こそ分かち合いだと教えてくれた」と語る。同じく学習支援ボランティアの林玟含も、6年間の活動で、子どもの成長と変化を見るのが1番の感動だと話す。
玟含のボランティア活動を一番応援していた父親がこの世を去った。彼女の悲しみは深く、家族の思いやりは尊いと感じた。すでに母である彼女は、母性愛を多くの「中国信託の子ども」と分け合いたいと、英語と資産運用ボランティアとして子どもたちを支援することを希望した。
資産運用ボランティア
少しのお金でも大切であることを知る
資産運用ボランティアの黎祐任は、お金の価値観が一変した。仕事柄、彼は数百万元、数千万元のお金を扱うが、この数字に対して、特別な感情を持ったことがなかった。しかし、「僻村では少しのお金でも大切」であり、多くの人が毎日100元や200元のために頑張っている、という台湾の真の姿に気がついた。「あの頃の自分のままだったら、社会貢献や社会還元を考えなかったでしょう」と彼は言う。彼は、正しいお金の使い方を学ぶことで、僻村家庭が飢えと貧困から抜け出すことを願っている。
思いやりの行動は、中国信託に文化的価値観として根付いている。「緑のベスト」着用の有無に関わらず中国信託社員は、自然と手を差し伸べることができる。愛の共有と循環が、多くの生命に火を灯すのだ。
「緑のベスト」は、中国信託の重要な文化的価値観であり「誠実で思いやりのある行動」を象徴している。
「緑のベストを着ると、脱ぎたいとは思わないでしょう」 会長の陳国世は、ボランティアに参加して以来、この活動をずっと楽しんでいる。
資産運用ボランティアの黎祐任(後段右から1番目)は、仲間と一緒に僻村に足を運び、関西国民小学校少年野球チームの子どもたちに正しいお金の使い方を教えた。
学習支援ボランティアの王惠卿は子どもたちに寄り添う中で、生命の強さを感じた。
私たちは土地・人・物事を気にかける
崇高な
価値
自分と関わりのない人を思いやること、
これこそが「We are family」の精神である。
中国信託創業50周年に、
私たちは信念を貫き、この価値を守る人を書き記した。
彼らと同じように、心を込めてこの土地をより美しくする人に感謝する。
捧げる
滿詠萱
中国語が話せず、アクセルペダルに足が届かないほど背が低い。
このフィリピン籍のシスターは車を運転し、台湾に滞在して30年になる。
愛こそ、最高の言葉である。
滿詠萱 台湾第17回医療献身賞受賞者1959年フィリピン生まれ、聖オースティン大学を卒業し薬剤師になった。のちにシスターになることを希望し、1988年台湾嘉義に赴任。現在は朴子市のカトリック教会敏道家園で奉仕する。
1988年、神と教会の意志に従い、台湾嘉義県東石郷下の聖心教養院に赴任した。彼女は、自分の意思で動いたり話したりできない100名近くの重度身体障害児に接してきた。彼女が29歳のころ、心が辛くなり、夜中に涙を流し、神に助けを求めたこともあった。
身長が150 cmない彼女は、2010年から敏道家園に派遣されている。台湾の運転免許証を取得し、抜け道も良く知っている。急患の子どもを一刻も早く病院に送り届けなくてはならないからだ。
彼女は、中国語や簡単な台湾語での意思疎通はすでに問題がない。話すことのできない子どもたちとは、アイコンタクトなどを使い、彼女にとって子どもたちは皆大切な宝物であり、彼女はもう二度と涙を流さないと決めた。教養院にいる生徒は、若くして亡くなることが多く、この30年間で亡くなった生徒は、全員彼女自身が身体を拭き、容姿を整え祈りを捧げ見送ってきた。
疲れるといつも神父(当時彼女たちと共に奉仕していたブルクハルト神父。すでに逝去)のベッドの前に行き、布団を整えることで、気持ちを切り替え、前進してきた。
彼女は毎日、祈りを捧げている。教会は厳かな場所だが、彼女の心は、喜びで満たされている。
退職の時が来たら、フィリピンに帰国するのかと彼女に尋ねた。彼女は初めは笑いながら、シスター会の配属に従うと答えた。しかし、すぐに「あなたは私という人間を台湾から追い出すことはできます。しかし、私の心にある台湾まで追い出すことはできません」と真剣に話した。
土地への思いやり
黃聲遠、
フィールドオフィス・アーキテクツ
宜蘭を掘り起こし、国際的に注目を浴び続け建築大賞を受賞した黃聲遠。
彼は、「一人ひとりが決心し、小さな場所・小さな事にも自由に貢献する
事ができれば、皆の力が合わさってすごく大きな力になるだろう」と話す。
黃聲遠 東海大学建築学士、イェール大学建築学部修士。フィールドオフィス・アーキテクツ建築師を統括し、宜蘭で「維管束プラン」を完成させる。羅東文化工場、津梅棧道等の作品を宜蘭に合う建築に変更。
デスク上に模型がなければ、ここが建築デザイン事務所であるとは想像できないだろう。なぜなら、この事務所では仕事を皆で共有しており、ランチも一緒に食べるからだ。
その時、ラフな格好の人物が入ってきた。あまりに自然で誰も彼に挨拶しない。彼こそが、フィールドオフィス・アーキテクツ代表の黃聲遠である。
「あなたは自分を宜蘭人だと思いますか?」
彼は台北で生まれ育ち、アメリカから帰国後、宜蘭に根を下ろして20年以上、多くの建築作品を作ってきた。彼は少し驚いた様子で、苦笑いしながら「宜蘭に来たばかりの頃、それはひとつの悩みでした。ある人がこのことで、宜蘭を愛する私たちを非難してきたのです。初めは少し傷つきましたが、そのうち宜蘭人かどうか疾に忘れていました。」と話す。
宜蘭の未来の環境プランを検討した際、彼の表情は厳しかった。多くの人が学びを経験に変え、収穫があったと思えても、そこで終わってしまって進歩がない、と感じたからだ。
「誰もが常に小さな場所でも自由に貢献できると確信し、他人にとってプラスになることを忘れなければ、皆の力が合わさって大きな力になるだろう」。
彼は宜蘭に感謝し、自由を維持するために努力を続けている。制約もなく、身近な人を大切にし、生活の中で影響し合い、「ここに足りないものは何か、私たちに何ができるのか。」と考える。彼は、この地を離れないと言い「宜蘭人かどうか。私たちがまだ気にしているとしたら、宜蘭に申し訳ない」と話す。
動物への思いやり
林文鮮
捨てられた地獄から救われたばかり、
子犬たちは車輪を引っ張り、
前に向かって走る。
借金を重ねるリハビリテーション科医師が先頭に立った。
苦しく長い、しかし心温まるストーリーである。
林文鮮 リハビリテーション科医師、昼は医師として働き夜は犬たちの世話をしている。「慶兄さん」こと劉永慶と共に「台湾伴侶動物扶助協会」を設立した。「皆の力を合わせて、一緒に犬山居を守っていきたい」と話す。
半身不随の動物は病院でほとんど安楽死を「提案」される。リハビリテーション科医師の林文鮮は、それとは反対で「治療看護の観点から彼らをケアしよう」と考える。
「犬山居」の中庭では、スタッフが体の不自由な100匹あまりの犬に餌を与え、撫で、排泄物などをこまめに洗い流している。
彼女は犬と一緒に育った。
14年前、妊娠中の母犬が子犬を連れてさまよっている姿を見かけ、彼女はその犬を助けたいと思った。「犬は一生懸命生きていますが、人間はその苦しみを知りません。彼らを助ける方法を考え始めました」。彼女は3年で台中郊外に「犬山居」を造り、半身不随で捨てられた犬を積極的に受け入れた。
一匹目の犬は、ケアによって歩けるようになり、彼女とスタッフの大きな励みとなった。「人も犬も同じ命です。半身不随の人間をケアした経験を生かし、医者と患者の関係を見つめ直しています。強いて比較するなら、私は病人には理性的ですが、病犬には多くの感情が湧き上がります」と彼女は話す。
飼い主に捨てられ心を閉ざした子犬には、人に対して失った感情と信頼を取り戻すことが必要である。子犬がふらつきながら駆け寄り、甘えてくると、彼女の感情は揺さぶられる。「犬は家族です。半身不随の犬にとって、安楽死が唯一の選択肢であるというのは間違っています。彼らが尊厳を持ちながら生き続けるために、私たちは寄り添うのです」。
結束
東河国民小学校綱引きチーム
4年連続で全国優勝を勝ち取る。
僻村の子どもたちには設備や資金がなく、外の世界を観たいという想いで、
この縄をしっかりと握る。まさに、最小限の資源で、大きな成果を挙げたのだ。
東河国民小学校綱引きチーム 苗栗県南庄郷の東河国民小学校、教員と全校生徒を合わせても100人に満たない。綱引きチームができてから10年、4年連続で全国優勝を勝ち取った。さらに日本にも招待され、青少年選手権大会に参加した。
苗栗県南庄郷東河村には、全校児童が60人ほどの小学校がある。背は低く痩せているが、元気で丈夫そうな児童たちが準備運動をしていて、真剣に運動能力を鍛えているのだ。
コーチの林宗凱は、児童が授業で達成感を得るのは難しいと感じ、綱引きやスポーツイベントを通して、子どもの学習能力を刺激しようと考えた。
用具も資金も足りなかったため、綱引き用の縄を借り、自らコーチとなったが、役割は様々だ。練習後、車で子どもたちを山間部まで送り届けるなど、大変だが彼は「苦しい環境でも、子どもたちを正しく導けば、彼らの人生には多くのチャンスが与えられる」と信じる。
練習はハードで子どもたちとって楽ではない。長い間の練習で、手はマメだらけ。しかし、その甲斐あって、体格でも環境でも有利な相手を何度も打ち負かし、4年連続優勝という快挙を成し遂げたのだ。さらに、海外試合に招待され、子どもたちは村を出て世界を見たのである。
あらゆるスポーツは、優勝を目指して常に前に進むものだ。唯一綱引きだけが「後退する」必要のあるスポーツであり、仲間と協力し合って初めて勝利を手にできるのだ。
子どもたちの意見が対立したとき、彼は「全員にペナルティ」を与える。重さ20~30 kg、長さ33.5 mの綱引き用の縄を担がせ、村中を走らせる。重さを分け合い、スピードを合わせなければ、走れば走るほどに疲れてしまう。そのとき、子どもたちは団結し、心をひとつにすることを学び、次に不愉快なことがあったとしても冷静になれるのだ。
彼は子どもたちの可能性を育てたいと熱望する。子どもたちは人生に挑むチャンスを懸命に創り出し、その勢いは村まで届き、設備や資金の少ない僻村に無限の可能性を与えている。
己への挑戦
莊雅菁
たった1本の手で、どうやってギターを弾くのだろうか。
両脚を失ったら、走りたい時はどうしたらよいのか。
アイアンガールは、挑戦したいことを、必ずやり遂げるだろう。
莊雅菁 1993年生まれ、2007年に交通事故に遭い右手以外の手足を失った。再び立ち上がろうという意志で、2016年から「スプリング式シューズ」で、再びトラックに立ち始めた。
11年前、14歳の少女が交通事故で火傷を負い、視力・聴力・左手・両脚を失った。8回もの顔面再建手術、20回以上の整形手術などを経て、8年後再び歩いたり走ったりできるようになった。現在25歳の莊雅菁は「アイアンガール」となった。
4年間の車いす生活に加え、母親が癌を患った。彼女は義足で出かけたり、母親と買い物をしたり、周囲の好奇な目から隠れず「たくさんのことに挑戦したい」と思うようになった。走りたい、山に登りたい、ギターを弾きたい、彼女はそう願った。右手しか残っていないが、せっかく助かった命だ。彼女に「やりたいことは、必ずやり遂げる」という気持ちが込み上げてきた。
ギターを弾きたくても右手しかない。義足製作会社は、彼女のために左手の義手を造り、右手で弦を押さえ、左手で弦をはじけるようにした。脚を切断した人は、歩くのに健常者より30%も多くのエネルギーを消費する。そのため特別に、義足のランナー、ピストリウス選手の「スプリング式シューズ」をオーダーした。
初めはトレーナーに支えられながら歩いていたが、最後にはひとりでバランスをとりながら軽く走れるようになった。「8年かかりました。初めてトラックに立った時から、再びここに戻って来られるとは考えもしませんでした」と彼女は話す。
死の淵から生還し、苦しんだことは確かだ。しかし、彼女は自由で強い意志を持っている。「私にできるなら、あなた方にもできます。自分に欠けているものを受け入れてようやく、誰もが唯一無二の存在だと気づくのです」と話す。
家族愛
李孟晉
娘は他の人と同じように遊びに行きたいと願った。
しかし、彼女はそうすることができない。
大丈夫。私が彼女の両脚になろう。
李孟晉 退役軍人、現在は幼稚園バスの運転手。ひとりで3人の娘を育て、脳性麻痺の長女慈耘とともに、すでに20回以上のランニングイベントに参加している。
「慈耘は私の重荷ではありません。私の宝物です」李孟晉は、車いすの長女・慈耘と各地のマラソンに参加している。かつて人生の目標を見失った彼は、娘のため再び走り始めた。彼は軍隊生活で、家族と過ごす時間がほとんどなかった。退役後、どう「父親」になればよいのか分からなかった。
慈耘の脳性麻痺の状態はあまり芳しくなかったが、眼差しはいつも窓の外に向けられていた。娘の憧れを抱いたような眼を見ると、彼は不安な気持ちに捉われている自分を恥ずかしく思った。「彼女は自分で走れない。私が彼女を連れて行こう」
彼は娘に靴下をはかせて、ユニフォームを着せ、帽子を被らせ、車いすに乗せて、押しながら家の近所をジョギングした。徐々に距離を伸ばし、ランニングイベントにも参加するようになった。スポーツで体を鍛えるのは付加価値に過ぎず、娘を連れて世界を見ることこそ最大の目的なのだ。「彼女は私の娘であり、私は彼女の手足です」と話す。
ランニングイベントに20回以上参加し、5 kmからハーフマラソン、フルマラソンまで、父親に支えられながらも、車いすの慈耘に笑顔が増えた。沿道の応援にも反応する。李孟晉は「今は、走る距離が短いと、慈耘は不満そうな表情をします。ゆっくり走るのもダメなんです」と、笑いながら話す。
父娘は何度もメダルを獲得した。陽の光を浴びてきらきらと輝く娘の笑顔が、彼にとって最大の勲章である。ランニングだけでなく、人生もそうである。この笑顔のために、李孟晉は己を励まし、さらに遠くまで走る。なぜなら「自分が長く生きれば生きるほど、彼女を守ることができる」と分かっているからだ。
発行人 顔文隆
編集長 高人傑
編集人 林永勝
編集チーム 中国信託銀行広報および公益推進処
企画制作 集智館文化有限公司
映像制作 林佩瑾、許佳登、卓郁舜、陳漢臣、何春儀、欧陽佩欣、張大魯、李如松、和久室国際製作
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発行日 2018年5月
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